ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ、戯れゐたまへる御さま、見どころ多かり。御前なる人びとは、
「などか、同じくは」
「いでや」
など、語らひあへり。
明石の君の娘を紫の上が育てることになった。源氏物語はすぐに周りのものたちの感想が書き込まれていて、「実の子だったら」「うんだうんだ」とやかましい。そもそも小説の世界はのぞき見めいた性格があるけれども、源氏の世界は常に実際に誰かが見ているみたいな世界であり、考えてみると、源氏が死んだときの雲隠、しかも本文がないというのは(本当に本文がないと考えたとして……)分かる気がする。源氏はやはく消えてしまいたいという欲望を持っていたとわたくしなんかは想像する。
今日は、ゼミで、最近のヘイトスピーチと戦前の外国人差別の違いなどについて考えた。菊池寛のエッセイも読み直していろいろな発見あり。われわれは実に思い込みをたくさんしている。思うに、菊池寛などは、自分の意見については誠実なのに、他人についてはあんまりそうではない気がする。なんか小林秀雄みたいな人にもそういうところがある。彼らにも「御前なる人びと」みたいな人は多かったはずであるが、自分の意見が普遍的なものであることを確信する習慣は人それぞれにあり、他人によってはどうにも出来ないところがある。源氏も明石の君の娘を貰ってきてしまい、
道すがら、とまりつる人の心苦しさを、「いかに。罪や得らむ」と思す。
とか言っているが、それは「罪」ではないのだ光さんよ、もっと具体的な気持ちなんだよ――と言いたい。明石の君にしっかり聞いてみなはれ。いや、だめか。