小松左京は、『原爆の子』を見て「腹が立って、唾を吐いた」らしい。そして、原作を同じくする別映画「ひろしま」の方もあわせて、もっと化け物映画にすればよいのにみたいなことを言っている。お岩さんや化け猫が居る程度の化け物映画しかない当時はちょっとナンセンスな意見にも思えたのかもしれないが、小松左京の脳裡にはもっとものすごいものが去来していたに違いない。私見では、小松左京の脳裡にあったようなものは、多くの原爆映画やゴジラ映画によっては実現されず、シュルレアリスムの画家がデザインした「エイリアン」によって実現されたと思うのである。
原爆でも空襲でもそうだが、雨のように降ってきたわけじゃなく、我が国は恐ろしい敵に包囲されて「ヤラレ」たのである。こっちが手を上げたので、相手はチョコレートをくれただけのことだ。相手はいわばエイリアン――当時で言えば「鬼畜」だったのである。もちろん、相手にとってみりゃ、我々の国は今の北朝鮮なんかが日和見主義者にみえるほどであった。なにしろ、妙に統率のとれた融通の利かない猿が爆弾持って突進してくるのである。殲滅するしかない。
この前、「エイリアン・コヴェナント」を観てきた。
趣向は相変わらずの伝統藝な感じで、あんまり怖くなくなってきたが、もはや問題は恐怖ではなくなっているからでもあろう。あるいは、わたくしが恐怖というものを忘れかけているのか?
昨日は、授業のために、ここらあたりから復習してみた。考えてみると、チャペック以来、「ロボット」が人造人間というコンセプトを持つ限り、恐怖は減殺されていく可能性がある訳である。人間、ひいては自分が一番恐ろしい、とは本当であって半分嘘である。