昨日見し御けはひには、け劣りたれど、見るに笑まるるさまは、立ちも並びぬべく見ゆる。八重山吹の咲き乱れたる盛りに、露のかかれる夕映えぞ、ふと思ひ出でらるる。
紫の上には劣るけれども、とあいかわらず思ってはみるのだが、――みているとこちらが微笑んでしまうということはやはり……やっぱり同等に美しい。――こんな感情の動きはまるで小学校6年生か中学校1年生みたいである。少年が女性の品定めをすることには意味がある。品定めの理由を考えることによって、少年たちは世の中をどう判断するかをこそ学んで行くのであった。夕霧がだしてきた表現は、八重山吹の花の咲き乱れたところに露のかかった夕映え、というものであった――なんだそりゃ、なんか性の目覚めっぽいぞと思いきや、
折にあはぬよそへどもなれど、なほ、うちおぼゆるやうよ。
と遠慮がちに語り手がフォローしてくれる。
今日、長寿大学で「初恋」の「花ある君と思いけり」の部分について喋ったが、――わたくしは、藤村が急速に君に接近しているのを遺憾と思うものである。下手な比喩でもいいからもっと迷って欲しいんだ。しかし、藤村は接近しすぎてもうなんだか「思う」ことしかできないのであった。
トランプもすぐに接近するタイプだから、当然信用できない。今回のトランプから小泉純一郎の電撃訪問みたいなものを想像した人もいるであろうが、手が早いことに、我が国の人民は無条件にびっくりする習性がある。劇場なんか常に閉まっているのである。古風な状況分析かもしれないが、アメリカというのは戦争をやって儲けたがっていると考えるべきで、やはり本当の狙いは北朝鮮じゃなくイランじゃなかろうか。むしろ解く問題の分散を防ぐ必要もあって北朝鮮を足がかりにしているのではなかろうか。昨日、マルクスの「東方問題」を瞥見していて思ったんだが、それこそあそこらへんは、劇場ではなく「問題」に感じられるのである。故に、何が起こっても、我々の感情に推移というものが起こらないような気がする。対して、朝鮮や日本は「問題」として処理するにはかなりややこしい記憶が残りすぎている。それは無論、文化のおかげで――。
花は限りこそあれ、そそけたるしべなどもまじるかし、人の御容貌のよきは、たとへむ方なきものなりけり。
語り手はいまいち夕霧の感情に接近できない。少年が美しい人を見たときに「そそけたるしべなどもまじるかし」なんて思うであろうか。「たとへむ方なきものなりけり」なんてことは言ってはいけません。最後まで喩え続ける胆力が必要であります。源氏はモテすぎて、唯生きているだけで比較分析の機会に恵まれたが……