『堀さんと宮村くん』というマンガがあるが、嘗て学生に教えて貰った。面白い作品だったが、考えてみると、思春期(に限らないが)の恋愛は、思いが溢れ出てしまうようなもので、それをこんな感じで三角関係のコメディーにしてしまうと、かえって現実が辛く成りはしないかと心配である。コメディーは、――漫才が典型的にそうであるが直ぐさま反応してくれる相方が居り、落語だって、聴衆の反応はすぐある。(ないときは失敗である)
2(5)ちゃんねるにしてもツイッターにしても、笑いが尊ばれるのは、その反応が命のシステムだからで、――基本的に全体として喜劇的である。
授業でもそうである。そこで「双方向性」がどうであるとか言ってた人の大概は狂っていたが、なぜかというと、そんなことが目的化すれば、授業は基本的に喜劇になってしまうはずだからである。喜劇とユーモアは根本的に違い、前者はコミュニケーションがある種のタイミングなどの妙を備えているときには直ぐさま成立してしまう。ダウンタウンの漫才がそうであった。彼等の漫才が基本的にそういう虚無をはらんでいることになかなか気づかなかった我々は間違っていた。
『アルジェの戦い』(1966)というのは今も有名な映画であるが、独立運動のテロの連鎖は、連鎖ではなく、何故か起きるみたいな描き方がされている。特に最後の大衆蜂起は、前衛たちの動きとは関係なく起こっていたのである。連合赤軍が山中でごたごたやっている間に、東京で関係ない巨大デモが起こったようなものである。それらはコミュニケーションの所産ではないことを示しているようなものだ。
わたくしがこの映画で一番印象に残ったのは、テロを弾圧しにきたフランス軍の現場指揮官が、「我々にはナチスに対するレジスタンスに入っていたものもいるし、収容所から生還してきたものもいるのだ」と言って自分たちを正当化してたことである。これはわたくしには方便に見えなかった。たぶん本気なのである。やられた奴は絶対に正しい、これも一種の反応であるが、思いが溢れ出てしまうものだから、コミュニケーションを拒絶する。