そしてこの神社を語る上で欠かせないのが、拝殿の右手にある一群の碑群である。わたくしが前の記事で、近代に発達しているといったのは、ここの印象が強烈だったせいである。それゆえ、この神社は、一種の護国神社的な印象を残すものになっていると思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/e0/78bf05d0d4ff315488305b5688351936.jpg)
まずは、「忠魂碑」。上の部分には「日清日露殉職碑」とあり。忠魂碑には、大砲や拳銃をかたどったものがあるが、これもその系統であろうか。上の部分は新しく見えるから、どこかの時点で新たにつけたかな。寄付者の名前が彫られた碑が傍らにあったが、新しいものだった。近くで見ると結構異様な迫力がある。物神崇拝の研究というのは新たな段階に入ったらしいが、――それはともかく、わたくしは、大砲型の忠魂碑をみると、映画「続・猿の惑星」における、核ロケットを崇拝する人類を思い出す。あれは、冗談ではなく、今も昔も、我々の文明の特徴の一つなのであろう。キム氏もそうだし、ロケットを飛ばす映画で興奮している我々もそれを担っている。
更に右手には、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/37/51bc4490e64d7537941214ac0e935dc0.jpg)
注連石は昭和三八年。戦後になってから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/99/96ef9171ef485092a79c70fde169013a.jpg)
左の碑は、「明治三七八之役」を紀念したもので「義勇奉公」とある。確かに軍役義務行為という意味では役だ。太平洋役とか大東亜役とか呼べば、悲惨さがより際立つ気もする。戦争が「役」人仕事であることも理解できるし……。とりあえず、忠魂から奉公へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/ea/219500612cde5aa65353ee8c80c9e0cf.jpg)
正面にあるのは、「大東亜戦争殉職者碑」。ここでは「殉職」。忠魂→奉公→殉職。近代の戦争に対するアンヴィヴァレンツが感じられる変化である(イメージ)両側には、「明治百年記念」の燈籠もあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4d/301f8f3c6398c907be4921e47fd343df.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/0a/87c0e4a06c7507cd7645872103e38d22.jpg)
気を取り直して、境内社である。鳥居は、昭和七年。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/a5/358a9740b8b156047a1359091a2e3e6e.jpg)
『神社誌』によると、御先神社と牛願神社と思われる。詳細不明。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/37/02b53271e521418d1f1f06e95f7f800d.jpg)
境内を出て、南東にある鳥居に向かう。道真が建てた神社があった方向なのであろうか……
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/7b/4de8e3bd35d6ff2fb38f501dfd3de073.jpg)
これは御大典記念。平成二年。ちょうど一二〇〇年記念だったらしいのである。あれっ、平成一八年の時は……。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/d3/aca2aec54d082344b97044e18467daca.jpg)
御旅所。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/97/9ef77175d6663f0047c64bf73615d6ff.jpg)
そのそばにあるのが大正五年のもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/f5/4fa78314f40ee7942ba0e70744d60c2d.jpg)
この二つの鳥居は、奥の池のほとりの道に建っている。この池は将軍家綱の頃つくられたらしいが、もともと龍が住む池であったそうな。明治初期の大干魃の時、満濃池その他が軒並み干上がっているのに、この池だけはまったく大丈夫だったそうな。さすがドラゴンず。後ろに見えるのは室山といって、香西氏のお城があったらしい。「室」とは、先の観賢に関係あるとか(『角川日本地名大辞典』37香川県)。それはともかく、戦国時代にこの城をまもっていた太田犬養というのが、長宗我部元親(またお前かっ)に破れ……。いまは、城の跡の石ころが残ってるみたいです。石はこの辺はいずれにせよ豊富だよ……。水はともかく……。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/e0/78bf05d0d4ff315488305b5688351936.jpg)
まずは、「忠魂碑」。上の部分には「日清日露殉職碑」とあり。忠魂碑には、大砲や拳銃をかたどったものがあるが、これもその系統であろうか。上の部分は新しく見えるから、どこかの時点で新たにつけたかな。寄付者の名前が彫られた碑が傍らにあったが、新しいものだった。近くで見ると結構異様な迫力がある。物神崇拝の研究というのは新たな段階に入ったらしいが、――それはともかく、わたくしは、大砲型の忠魂碑をみると、映画「続・猿の惑星」における、核ロケットを崇拝する人類を思い出す。あれは、冗談ではなく、今も昔も、我々の文明の特徴の一つなのであろう。キム氏もそうだし、ロケットを飛ばす映画で興奮している我々もそれを担っている。
更に右手には、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/37/51bc4490e64d7537941214ac0e935dc0.jpg)
注連石は昭和三八年。戦後になってから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/99/96ef9171ef485092a79c70fde169013a.jpg)
左の碑は、「明治三七八之役」を紀念したもので「義勇奉公」とある。確かに軍役義務行為という意味では役だ。太平洋役とか大東亜役とか呼べば、悲惨さがより際立つ気もする。戦争が「役」人仕事であることも理解できるし……。とりあえず、忠魂から奉公へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/ea/219500612cde5aa65353ee8c80c9e0cf.jpg)
正面にあるのは、「大東亜戦争殉職者碑」。ここでは「殉職」。忠魂→奉公→殉職。近代の戦争に対するアンヴィヴァレンツが感じられる変化である(イメージ)両側には、「明治百年記念」の燈籠もあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4d/301f8f3c6398c907be4921e47fd343df.jpg)
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気を取り直して、境内社である。鳥居は、昭和七年。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/8b/93dc70ba7699ac6fda2bd4d692bbda30.jpg)
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『神社誌』によると、御先神社と牛願神社と思われる。詳細不明。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/37/02b53271e521418d1f1f06e95f7f800d.jpg)
境内を出て、南東にある鳥居に向かう。道真が建てた神社があった方向なのであろうか……
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/7b/4de8e3bd35d6ff2fb38f501dfd3de073.jpg)
これは御大典記念。平成二年。ちょうど一二〇〇年記念だったらしいのである。あれっ、平成一八年の時は……。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/d3/aca2aec54d082344b97044e18467daca.jpg)
御旅所。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/97/9ef77175d6663f0047c64bf73615d6ff.jpg)
そのそばにあるのが大正五年のもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/f5/4fa78314f40ee7942ba0e70744d60c2d.jpg)
この二つの鳥居は、奥の池のほとりの道に建っている。この池は将軍家綱の頃つくられたらしいが、もともと龍が住む池であったそうな。明治初期の大干魃の時、満濃池その他が軒並み干上がっているのに、この池だけはまったく大丈夫だったそうな。さすがドラゴンず。後ろに見えるのは室山といって、香西氏のお城があったらしい。「室」とは、先の観賢に関係あるとか(『角川日本地名大辞典』37香川県)。それはともかく、戦国時代にこの城をまもっていた太田犬養というのが、長宗我部元親(またお前かっ)に破れ……。いまは、城の跡の石ころが残ってるみたいです。石はこの辺はいずれにせよ豊富だよ……。水はともかく……。