まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。 普賢菩薩の乗物とおぼゆ。
末摘花の鼻をからかった場面であるが、普賢菩薩の乗り物なのだから、別にいいではないかっ。そういえば、現代人はあんまり鼻の形を気にしないようになってきた気がするのであるが、気のせいであろう。というより、自分の顔をあまり見なくなっている気がする。丸山眞男は『自己内対話』で、多数少数制と満場一致制の違いを人間観の違いだと述べていた。そして、丸山は、多数少数制の前提として「一人一人顔が違っているように、考え方や意見が違っているのがたあたりまえ」と、さりげなくメモしていたわけであるが、――考えてみると、顔の違いを意見の違いと同等に並べうる人というのはあまりいないのではないか。
まあそのころ、丸山は東大で学生たちに拉致されたりいじめられていた。だから愚痴も言ってみたくなったのである。学生の言っていることはだいたいバナールだったと丸山は言う。丸山は、家永三郎に教育を軽視していることを叱られていたらしい。丸山は晩年、教育者としてふるまっているようなきがしないでもないが、そうすると、丸山にあった古典主義者としてのかっこよさがなくなっていったような気がする。
源氏も、末摘花を大事にした。しかしそれは彼女を差別的に扱っていることと裏腹ではなかろうか。いまでもそんな逆説がありそうでいやになる。