★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

圭子の夢はつかまえて

2010-07-09 23:01:45 | 音楽
授業で「圭子の夢は夜ひらく」と「いちご畑でつかまえて」をあつかって、ポストモダンについて説明する。家に帰って歌詞を混ぜてみた。

十五 十六 十七と
私の人生 暗かった
過去はどんなに 暗くとも
夢は夜ひらく

Bidan Bidan Bidubidubidan
Bidan Bidan Bidubidudan
Bidan Bidan Bidubidubidan
Bidan Bidan Bidubidudan

恋は魔法使い
つえを振るだけで
ただの女の子が
一から十まで 馬鹿でした

Bidan Bidan Bidubidubidan
Bidan Bidan Bidubidudan
Bidan Bidan Bidubidubidan
Bidan Bidan Bidubidudan
Bidan Bidan Bidubidubidan
Bidan Bidan Bidubidudan
Bidan Bidan Bidubidubidan
Bidan Bidan Bidubidudan

混ぜてみた……

裾野少女と霊界から拉致される少女

2010-07-08 22:51:34 | 文学
壇一雄の「裾野少女」(昭和18)を読んだあと、すごくだるかった。で、スピルバーグ製作の「ポルターガイスト」を観る。少女がテレビの画面の向こう側か、押し入れの向こう側に誘われて行ってしまったので、親が必死になって彼女を取り返そうとする話である。

前者は、なんとなく煮え切らないようなキャラクターの男が、ひたすら遠くに行ってしまう話だ。音楽を超えて、学校を超えて、恋愛を超えて、山を越えて、海原を越えて。

こういう世界の先に、娘がテレビの画面の向こう側にいってしまう世界が待っているとは。スピルバーグのせいで、宇宙人や霊界は。みんな家族と戦う羽目になっている訳だが、翻って考えれば、霊界の接近を待つことで結束している家族ばかりが繁茂する現代社会は悲惨である。だいたい、少女は向こう側に行きたかったもしれないではないか?本当は。少女を霊界から強奪してこの世界に生まれさせたのはそもそも家族ではなかろうか?

然るに、宇宙人や霊界は存在しない。そのことに本当に気づいたとき、虚無の中で我々はまた何をやらかすかわかったものではないという次第だ。

歌謡曲の歴史を語る

2010-07-07 23:17:35 | 大学
例えば、喜怒哀楽がはっきりしている(ように行為している)人はだいたい事実誤認をするおっちょこちょいなタイプが多い気がする。最近は謝ったら負けとか思っている人間が多いようなきがするが、そんな逡巡は本当はなくて、単に自分に対する誤認から出発しているのではなかろうか。――本当は、出世欲から説明できると思っていたが、どうもそう簡単な問題でもなさそうだ。

授業は楽しくて、1時間目は、戦後の歌謡曲の歴史について曲を聴きながら語った。「国語科内容学演習」は、国語科に必要な教養をつけるとか実践的的な真実を吹いているので、なんでもかんでもな感じになってきている。こういうと、すぐ国語の内容との関連性を示せとか言い出しそうな人間がいそうだけど、まず、かかる質問をするセンス自体が野暮すぎる。

まだ三×に入ったことさえない件

2010-07-06 23:07:58 | 食べ物
今日は修士論文の中間発表会のあと、××先生の博士号取得記念会+修士課程1年生の歓迎会。

とにかく勉強してないとお酒を飲んでも楽しくない。お酒は口で飲むものではあるが、おしゃべりと共に飲むという意味でも口で飲むといえる。自分のしゃべりがおもしろくない場合、酒もまずくなる。

ちなみに、用事で欠席された××先生が差し入れたワインは、すごく高そうだった。三×で買われたらしいのであるが、――私は、まだ一度も×越で買ったことがないばかりか、そもそも入ったことがない。

ロマン主義者はすごいものを褒めたがらないのかも

2010-07-05 23:17:44 | 文学
大学であっち行ったりこっち行ったりしながら、研究室に着くと、昨日読むはずだった林房雄の「浪曼主義の夢(リアリズムよ、さようなら!)」のコピーが目に入ったので、一気に読む。

「飽くまで浪曼主義である。浪曼主義こそ文学の本道である。」

いきなりこれだからな……。二頁目に載っていた「ライトインキ」(篠崎インキ製造株式会社)の宣伝コピー「天下一品!!一家一壜!!」とほとんどテンションが変わらないところがすごいな。あ、「ライトインキ」の文句は「大壜小壜……全国の文具店にあり」と続くから、なんとなくためらいが感じられるけど、林の文章は果てしなく盛り上がって行くのである。最後の文は、

「人類の永遠の夢は、かくして実現に近づいて行くのである。」

その「かくして」の意味分からんぞ……

私の日常は、こんな人の文章でも良いところを探すつもりで読む日々なのである。そういえば、私は、一見だめに見えるが実はすごい、という論法をとりがちだな……。これもロマン主義の一種かもしれないから気をつけた方がいいかもしれない。みんなもすごいと思ってるけど、実は更にすごいぜ、という論法もやってみたいものだ。内田樹と石川康宏の『若者よ、マルクスを読もう』を読んでそう思った次第である。

「GO!GO!NIAGARA」と「さよなら絶望先生」、そして高畠素之

2010-07-04 23:41:47 | 思想
大瀧詠一の「GO!GO!NIAGRA」を聴きながら「さよなら絶望先生4」を読んでいたら、後ろの本棚の上に斜めに積み上がっていた『資本論』が四冊ぐらい墜ちてきた。

改造社の高畠素之訳のものだから、まあいいか……少し壊れたが。

高畠は『資本論』をはじめて全部訳した人だが、無政府主義的な色が強かった当時の左翼の中で、「われら日本猿には国家が必要」(←そんなことは言ってないか)と、国家社会主義の方向に行った、ある意味で正直な方である。国家と資本が別のものであるという真実に目覚めた方々はいつも大変だ、国家が必要か不必要か、即答しなければならない気分になってくるからだ。

しかし、国家をめぐる良くも悪くも観念論に陥りがちな議論よりも、やっかいなのは私有財産の撤廃の議論の方である気もする。最近なんか、研究者の世界でも、共同研究とかいって、他人の財産まで強奪する仕組みがある。個人で閉じてないで、他人といっしょにやりましょうと、個人宅に押し入った強盗が言っているのだからあきれる。(もちろん冗談で言っているわけだが、少なからずこういう感じではある)大学の運営関係の仕事が個人の業績としてカウントされるのも同じような事態である。そうすれば個人主義的な研究者が公共意識にめざめると思ったか?ちょっとは想像力を働かせていただきたい。自分が目立てる局面だけを選択的に仕事し、目にみえない仕事を巧妙に他人に押しつけるようになるに決まっているではないか?――というわけで、なぜか公共的なスピリットに最も欠けているようなタイプが「みんなの迷惑にならないようにしましょうね」とか叫び、迷惑をかけないように気をつけている人々に自分の尻ぬぐいをさせつつ、私益のための行動を続ける羽目になる。一見、私有財産の撤廃的な施策に見えながら、もっとも私益に走るやつに資する次第である。無論、その私益というのが上の方の意向と一致するように自己鍛錬を積んできてしまった結果、逡巡なく主張されるので、――エゴに走ることが全体主義的な雰囲気を増幅させていく。

こうなったらもう終わりだ。

「こんな時、あの娘がいてくれたらナア」が終わったあと、「あの~、サイドⅠ終わったんですけども」という大瀧さんの声が聞こえてくるのはいつ聴いても楽しい。サイドⅡを押し売りしてる感じがしないのが不思議である。「さよなら絶望先生」は、第40話「人生は1段のひな壇にも若かない」が面白い。糸色家のひな祭りへ行くと、そこには地下段飾りという下に伸びるひな壇がある。下には下があるという「ポジティブな発想」からつくられたものだ。下層志向やプレカリアートを論じた作者の私益に満ちた書物よりこっちの方がよっぽど優れている。

祝、終わらない日常2

2010-07-03 16:27:31 | 映画
呪!ブログ二ヶ月継続記念!

記念に、なにやらジェネレーションを感じさせる記事を投稿しておきたい。

私はあまりテレビを見て育っている方ではないので、同世代の人間と話が合わない。例えば、おにゃんこクラブなど、まったく当時体験していないので、私にとっては明治の文藝倶楽部と同じく歴史事項に過ぎない。彼女たちの一人を追っかけていた東×紀とか、いつの時代の人なのか分からなかったが、同い年なのだ。

私にとっては、松田聖子はつい最近ネットデビューした新人歌手なので、彼女の髪型は大昔の映画の悪役(ダースベイダー)を模倣した奇妙きてれつなものにみえる。

とはいえ、最近、少し気になっているのが、ポール・バーホーヴェン監督と女優のナンシー・アレンである。

バーホーヴェンは、「ロボコップ」で有名だが「グレート・ウォリアーズ 欲望の剣」もよいし、「ショーガール」もよいし、もちろん「スターシップ・トゥルーパーズ」も素晴らしいと思う。グロテスクなスプラッターや、ビッ×が頻繁にでてくる、家族の団らんにはおすすめできない映画ばかりを撮っているが、上品さがあると思う。わたくしはなんとなく肌に合うのである。最高傑作は「グレート・ウォリアーズ 欲望の剣」だと思う。これはすごい。原題は「Flesh+Blood」。昔テレビで放映されたときには、「炎のグレートコマンド~地獄城の大冒険~」という邦題だったそうだ。まあ、えー、雰囲気は出ている。

ナンシー・アレンは「ロボコップ」の相棒女刑事ででている。「フィラデルフィア・エクスペリメント」では、戦前からタイムスリップしてきて体から電撃が出てしまう青年と恋に落ちる、いなかっぺの女の子を演じている。そういえば「ポルターガイスト3」にもでていた気がするがよく覚えていない。スピルバーグの「1941」ではただの美人役だったが、その後、なんだかおかしな役ばかりやらされている。デ・パルマ監督と結婚していたというところも、「あなた、そのおかしな路線をわざと狙っているのか」といいたくなる。

というわけで、でんこちゃんを抜いて今のミューズはナンシー・アレン。

思うのだが、私が、なんとなしに、八〇年代の映画や美人に引き寄せられている感じがあり、そういう自分に最近絶望した。

結論:テレビを見なくても、世代の感性は存在する!(メディア論者は反省せよ。結局、あなた方は証拠書類がほしいだけに思えるね……)

サロメと幸福の王子はどこかしら確かに似ている

2010-07-03 15:29:21 | 文学
昨年気づいたのだが、――「幸福の王子」ってアンデルセン作じゃなくてオスカーワイルドだったOTL

昔読んだ作品は、総点検が必要だ。私の記憶はあぶなっかしくてたまらない。

今、壇一雄の「花筐」を読んでます。

「痴態、そうだ痴態。ワイルドを身近な友人の一人に数えこんでいるこの教授は十九世紀のものすさまじいダンディズムを自分のきざっぽい赤靴の先まで俗化させねばならないのだ。」

いまなら、パオロ・マッツアリーノなんかに興奮するタイプの教授なんだろうね。

大森君の死がい(特賞)

2010-07-02 19:04:26 | 文学
下に引用するのは、大正7年11月の『赤い鳥』に載った投稿綴方である。(繰り返し記号の一部の表記を改めた。)


大森君の死がい(特賞)        小林譲

 大森君がこの間學校からかへつて来ないので、お父さんやお母さんや先生や友だちが皆心ぱいしてゐました。をとゝひもきのふも、暑い中を津山の人人が、城山の方やあちらこちらを大ぜいさがしてゐました。
 けふ僕は三時頃、お姉さんとおさらひをしてゐると、カタカタカタと、きくわんじゆうか、じようきぽんぷのやうな音が聞えたので、びつくりしてとびでゝ見ると學校のうらのころび山の上に人がまつくろに立つてゐましたから、いそいで行つて見ると、丁ど學校の裏の桑畑の中にじようきぽんぷをすゑて、古井戸をほしてゐるのでした。
 その井戸から大森君のぼうしと下駄とが出たのださうです。この山の上の人も道にゐる人も畠の中の人も、いきをのんで目をまるくして、みんな同じ所を見つめてゐました。大森君のお母さんもなくなくみてゐられました。そぱで受持の三島先生がなぐさめていらつしやいました。    
 三十分ばかりでこの深い井戸はかはひてしまつたやうです。一人のはだかになつた男が中へおりて行きました。しばらくすると、その人はかぱんをかけて、はかまをはいたまゝの大森君の死がいをだいて上つて来ました。そしてすぐござをかけてしまひました。
 お母さんは、その死がいの上にうつぶしになつて、ないてゐられました。僕も目の中がむづあつくなつて、大きななみだがむねの上におちました。僕は大森君はどうしてあんな所にはまつて死んだのだらうと思ひながらかへりました。少し馬鹿であつたので、よけいに気の毒でたまりませんでした。



私は小学校六年間、作家の牛丸仁先生に習っている。ずっと担任の先生だったのだ。先生は児童文学を主たる執筆範囲としていたが、小学校五年生のときだったか、先生の「一切皆空」という小説を授業で読んだ。この世を一切皆空であると見なすことと、自分の霊魂が死んでも無とならずに寺の門をくぐるかもしれぬ、という、なかなか処理できない二律背反的な恐怖を描いたものだった、と記憶する。児童文学者の持っている認識の直接性、――青春小説家の迂遠なだけの逡巡を許さぬ認識の苛烈さ、このことを私は忘れずにいよう、と常々思っている。

鈴木三重吉がもう少し子どもに対する観念論的な夢想をやめていたら、「大森君の死がい」の持つ可能性をプロレタリア文学に簒奪されずに生かす道があったのかもしれないのである。

確かに、教育学部に就職しなければ、私は過去にも童話にも興味がなくなっていたかもしれない。良いことなのかは分からないが、とりあえず、いろいろと「反省」を迫る職場である。