この前サッカーみてて思ったんだが、ワールドカップやオリンピックが4年ごとというのは古代ギリシアの戦死者を弔うお祭りの習慣を持ち込んだものなんだろうから、まさに戦争的な祭りなわけだ。つまり戦争の怨念を発散するのが目的ですね。
これに対してプロ野球は、毎年、春から秋にかけてずっとやってるわけで、二宮清純がどこかで書いていたけど──、当然連想されるのは、農耕作業である。昔、パリーグが前期後期制をとっていたことがあったが、これは二期作の発想である。巨×などが、他球団から良い稲や水を強奪しているのもナットクだ。農耕作業はお天気を気にするけど、野球もそうだ。外国人選手を助っ人というのも、隣村から体のでかいやつを呼んできてるようだ。
そしてなかなかよい稲が育ってくると「おおっこれは今年はいける!」と糠喜びする未熟者が必ず出てくる。そういう未熟者をみんなでわらって村八分にしたりして遊ぶ。
数年前、阪神は独走態勢、まだ優勝してないのに「Vやねん!タイガース~強すぎてたまりません。勝った、勝った!ばく進Vロード。優勝やねん」とかいう優勝目前雑誌までつくってしまったところ、最後、巨×に抜かれて大将が辞任したのは記憶に新しい。というより、そのときの阪神ファンをバカにするネット上の騒ぎはひどかった。――というか面白かった、とわたくしも正直に告白しておこう。2ちゃんねるの世界は、あと数年もすれば、その歴史的意味を忘れたマイノリティのインテリが完全否定を始めると思うが、それはそれで正論に過ぎない。
閑話休題――秋は収穫の季節である。ドラフト会議で「今年は豊作だ、いやそうでもない」とかなんとか言い合う。
そうやって冬になってやることがなくなると、みんなで囲炉裏を囲んで、商人などの悪口を言い合う。野球選手の契約更改、つまりストーブリーグの開幕である。
で、今年もなかなか農耕作業は面白くなりそうである。巨×が案外強くないのだ。ここにきて中日も4試合連続シャットアウト勝ち。さあ、糠喜びの季節がやってまいりました!
オリンピック的お祭り騒ぎがいやな諸君は、もう農耕作的日常でひっきりなしに糠喜びなどを繰り返し、そのつど村八分にするメンツを変えたりして遊ぶのだ。そうやっていくうちに、外国から何かが来て農地改革とかをやってくれる。
……思うに、二宮氏も私も、学的な根拠も何もなしに、敢えてこんな物語を空想してみることによって所謂日本的な何かを擁護しようとしているのかもしれない。本当は、こういう物語的な抵抗すら許さないようなものがじりじりと我々を追いつめているのだと思う。物語に対して物語を対抗させるという幻想があった時代はまだ楽なのだ。私は総力戦の時代から冷戦期にかけてすらそんな時代ではなかったと考えるけど……、とにかく相手は「グローバリズム」でも物語でもない、と考えるべきだ。
これに対してプロ野球は、毎年、春から秋にかけてずっとやってるわけで、二宮清純がどこかで書いていたけど──、当然連想されるのは、農耕作業である。昔、パリーグが前期後期制をとっていたことがあったが、これは二期作の発想である。巨×などが、他球団から良い稲や水を強奪しているのもナットクだ。農耕作業はお天気を気にするけど、野球もそうだ。外国人選手を助っ人というのも、隣村から体のでかいやつを呼んできてるようだ。
そしてなかなかよい稲が育ってくると「おおっこれは今年はいける!」と糠喜びする未熟者が必ず出てくる。そういう未熟者をみんなでわらって村八分にしたりして遊ぶ。
数年前、阪神は独走態勢、まだ優勝してないのに「Vやねん!タイガース~強すぎてたまりません。勝った、勝った!ばく進Vロード。優勝やねん」とかいう優勝目前雑誌までつくってしまったところ、最後、巨×に抜かれて大将が辞任したのは記憶に新しい。というより、そのときの阪神ファンをバカにするネット上の騒ぎはひどかった。――というか面白かった、とわたくしも正直に告白しておこう。2ちゃんねるの世界は、あと数年もすれば、その歴史的意味を忘れたマイノリティのインテリが完全否定を始めると思うが、それはそれで正論に過ぎない。
閑話休題――秋は収穫の季節である。ドラフト会議で「今年は豊作だ、いやそうでもない」とかなんとか言い合う。
そうやって冬になってやることがなくなると、みんなで囲炉裏を囲んで、商人などの悪口を言い合う。野球選手の契約更改、つまりストーブリーグの開幕である。
で、今年もなかなか農耕作業は面白くなりそうである。巨×が案外強くないのだ。ここにきて中日も4試合連続シャットアウト勝ち。さあ、糠喜びの季節がやってまいりました!
オリンピック的お祭り騒ぎがいやな諸君は、もう農耕作的日常でひっきりなしに糠喜びなどを繰り返し、そのつど村八分にするメンツを変えたりして遊ぶのだ。そうやっていくうちに、外国から何かが来て農地改革とかをやってくれる。
……思うに、二宮氏も私も、学的な根拠も何もなしに、敢えてこんな物語を空想してみることによって所謂日本的な何かを擁護しようとしているのかもしれない。本当は、こういう物語的な抵抗すら許さないようなものがじりじりと我々を追いつめているのだと思う。物語に対して物語を対抗させるという幻想があった時代はまだ楽なのだ。私は総力戦の時代から冷戦期にかけてすらそんな時代ではなかったと考えるけど……、とにかく相手は「グローバリズム」でも物語でもない、と考えるべきだ。