★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

野球は農作業、糠喜びが推奨される

2010-07-20 03:45:07 | 思想
この前サッカーみてて思ったんだが、ワールドカップやオリンピックが4年ごとというのは古代ギリシアの戦死者を弔うお祭りの習慣を持ち込んだものなんだろうから、まさに戦争的な祭りなわけだ。つまり戦争の怨念を発散するのが目的ですね。

これに対してプロ野球は、毎年、春から秋にかけてずっとやってるわけで、二宮清純がどこかで書いていたけど──、当然連想されるのは、農耕作業である。昔、パリーグが前期後期制をとっていたことがあったが、これは二期作の発想である。巨×などが、他球団から良い稲や水を強奪しているのもナットクだ。農耕作業はお天気を気にするけど、野球もそうだ。外国人選手を助っ人というのも、隣村から体のでかいやつを呼んできてるようだ。

そしてなかなかよい稲が育ってくると「おおっこれは今年はいける!」と糠喜びする未熟者が必ず出てくる。そういう未熟者をみんなでわらって村八分にしたりして遊ぶ。

数年前、阪神は独走態勢、まだ優勝してないのに「Vやねん!タイガース~強すぎてたまりません。勝った、勝った!ばく進Vロード。優勝やねん」とかいう優勝目前雑誌までつくってしまったところ、最後、巨×に抜かれて大将が辞任したのは記憶に新しい。というより、そのときの阪神ファンをバカにするネット上の騒ぎはひどかった。――というか面白かった、とわたくしも正直に告白しておこう。2ちゃんねるの世界は、あと数年もすれば、その歴史的意味を忘れたマイノリティのインテリが完全否定を始めると思うが、それはそれで正論に過ぎない。

閑話休題――秋は収穫の季節である。ドラフト会議で「今年は豊作だ、いやそうでもない」とかなんとか言い合う。

そうやって冬になってやることがなくなると、みんなで囲炉裏を囲んで、商人などの悪口を言い合う。野球選手の契約更改、つまりストーブリーグの開幕である。

で、今年もなかなか農耕作業は面白くなりそうである。巨×が案外強くないのだ。ここにきて中日も4試合連続シャットアウト勝ち。さあ、糠喜びの季節がやってまいりました!

オリンピック的お祭り騒ぎがいやな諸君は、もう農耕作的日常でひっきりなしに糠喜びなどを繰り返し、そのつど村八分にするメンツを変えたりして遊ぶのだ。そうやっていくうちに、外国から何かが来て農地改革とかをやってくれる。

……思うに、二宮氏も私も、学的な根拠も何もなしに、敢えてこんな物語を空想してみることによって所謂日本的な何かを擁護しようとしているのかもしれない。本当は、こういう物語的な抵抗すら許さないようなものがじりじりと我々を追いつめているのだと思う。物語に対して物語を対抗させるという幻想があった時代はまだ楽なのだ。私は総力戦の時代から冷戦期にかけてすらそんな時代ではなかったと考えるけど……、とにかく相手は「グローバリズム」でも物語でもない、と考えるべきだ。

萌える教員採用試験

2010-07-19 21:36:23 | 漫画など
この前授業で、リーフェンシュタールの「意志の勝利」を少し観た。悪名高いナチス党大会の映画である。この映像にみられた「美」は、ヤマ×やガン×ムのナチス役にはみられない……

で、一週間後、だいたい一番前の席で聞いてくれているT君が「萌えるナチスとかいう本をみつけました」と報告してくれた。さすがにT君は買わなかったようだが、私は学者の習性で自分が読んでない本があることが許せない。ということで買ってみた。

『萌え萌えナチス読本』(イーグルパブリシング)である。帯には「第三帝国を萌やし尽くせ!諸君、ドイツは萌えているか!?」と書いてある。

日本おわっとるな……

萌え系の絵というのはよく知らないが、19世紀的なものによくあうんじゃないかな、機械美や軍服にはどうも合うように思えないんだが……、この本もかなり×持ち悪かったぞ……

ところで、学生諸君の使っているゴミ箱にも「萌えるゴミ」と書いてあったね。漢字を覚えるのはよいことです。がんばれ教員採用試験!

吾輩は、アメリカ軍がレインボーブリッジを爆撃すると思う

2010-07-18 23:12:37 | 映画
エアコンを買い換えたのだが、性能が良くなったせいか、普段の部屋の空気と違う。で、いつもと違うので、体調が何となくおかしい……

昨日、本を読みながら「踊るよ大捜査線 さっさとレインボーブリッジを封鎖しなさいよ」を観ていたせいか、脳の働きが鈍ったかもしれない。トップダウンの組織か、目的だけあってトップがいなくても勝手に動く組織か、と悩んでいても仕方がない、良いリーダーがいる組織がよいのだ、と言いたいところだろうが、組織は真空の中に存在してる訳じゃないのだ。私なら、物語の結末で、アメリカ軍に爆撃をやらせるね。レインボーブリッジだけじゃなく湾岸地帯は火の海だ、主人公たちもあっけなく焼け死ぬ。かかるとき、事件は会議室でも現場でもなく、「ホワイトハウス」で起きてます。

しかし、こういう現実的結末(笑)を回避して遊びたい気持ちが、この映画の当時の大ヒットにつながったのかもしれない。管理職の苦悩、中間管理職の懊悩、部下たちの焦燥、そんな彼らの人間的な対立の裏にはこんなこと――誰もが組織外部からのプレッシャーに操られた意思決定権を持たない人間であり、そしてそれをある程度意識していることが対立の究極的な原因であると皆知っている、そんな状況がある。こんなことは日本だけの問題ではないから、ほんとはみな訳が分からないのだ。で、日本だけで話がすむと信じられていた時代の議論──みんなの中で誰が威張ってよろしいかという、水戸黄門と大して変わらない話に逃げ込んでしまう。すなわち、――思うにこの映画と「けいおん!」はそれほど違っている訳ではないのである。みんな本当はお茶のみながらメールうったり、冗談言ったりしながら暮らしたいだけなので、ほんとは避けたい倫理とか組織論とかを語っても無理がでる。映画の中から「笑いに逃げたいよ~逃げたいよ~」という声を私は何度も聞いた……

金子健二の『人間漱石』を読む。漱石を「狭いが深い」と言い切る金子氏に敬意を払いたい。我々は「狭いし浅い」、あるいは「広いつもり」みたいな社会にすんでいるような気がする。

「十人十色の読者の人生」否定論

2010-07-17 22:33:50 | 文学
昨日の授業で、作者の人生が作品に反映するとは限らないという話をしたときに、「浦沢直樹はへんな犯罪者が好きだとか、鳥山明は戦闘力が高いとか、とても信じられない」と言ったら、異常にウケたけど、それほど面白かったかな……特に鳥山明が面白かったらしいんだけど。

彼らの長所は、小説がフィクションであることだけはすごくよく分かっていることだ。

所謂「テクスト論」以降、作者をバカにして読者がひたすらわかりやすさを要求するようになったような気がしていたけど、違うかもしれない。テキストに書かれていることを無視して、読者自らの人生体験(笑)とかを勝手に作者にもあったことにする、昔作家論の一部にみられたような写実主義的感想文体質こそが原因だったのかもしれない。作者はそんなこといってないんじゃないですか、テキストにそんなことは書いてないですよ、端的に誤読ですよ、と指摘すると、自分の人生体験を否定されたような気になる読者がすごく多く存在していることにいまさらながら驚く。今のご時世、人格否定とかで訴えられかねない(笑)。読者の人生なんかどうでもよいのだ、十人十色の読み方もどうでもよい、問題はテキストに何が書いてあるかだ。原理的にやや難はあるが、心構えとしてはこれでゆくべきなのである。だいたい自分の人生をの自慢げに語るその話自体が、ひどい紋切り型のフィクションであることが多いわけだ。そんな陳腐なものをテキストの中に探されても困る。ちょっと気を許すと、いきなり「自分は苦労してきました」ことを自慢するやつが多くなったのは何故だろう。相手(自分でもいい)がどのような人生を送ってきたかも想像せずにそんな自慢を出来る神経が信じられない。必要なのは、テキストは能力がなければ読めるとは限らない、同様に、自分の人生すら読解力がないと実態は掴めない、という「常識」の復活である。

佃公彦が亡くなった。私は中日新聞の「ほのぼの君」をほぼ毎日読んで育ったけど、内容はほどんど覚えてない。同様に、私の人生も良く覚えてない、とすべきである。「ほのぼの君」のあとは「ちびまる子ちゃん」だったけど、「ほのぼの君」の方が面白い気がしたことは覚えている。しかし、これも私の主観だからよくわからない。興味があるのは、「ほのぼの君」のあとが西原理恵子の「毎日かあさん」だったらどう思ったかである。作品の力が読者の主観とは関係ないことが明らかになったかもしれない。

このクラスには、テクストではなく生々流転する作品がある

2010-07-16 03:10:00 | 文学
昨日は授業で、葛西善蔵の「子を連れて」から中野重治の「村の家」を経た壇一雄の「裾野少女」への流れ(←これはかなり強引だった)と、稲垣足穂から始まって松本隆にいたる流れを、途中に谷崎の「卍」を挟みつつ(←挟まなくても良かった……)勝手気ままに講義してみた。

「村の家」や「裾野少女」にはすごく説明が必要なのに、「一千一秒物語」(足穂と松本隆の両方ね)と「いちご畑でつかまえて」に説明が必要でないように感じられるのは実はおかしいのではないかと思うが、それを言うレベルの授業ではないので、なんとなく私も歯切れが悪くなったようだ。

松田聖子の曲にしても、「風立ちぬ」より「いちご畑でつかまえて」の方が、学生の反応がよい。私の洗脳の効果かと思うけど、音楽的にも当然の反応だと思うんだがどうであろう。作曲者の大瀧詠一は喜ぶであろうか?

しかし、別の可能性はまだある。「風立ちぬ」が古文なので……という理由である。

私のような恣意的な学徒によってねじ曲がったイメージで伝えられる文学作品たち……耳と心の変化にひたすら耐える音楽たちは、生々流転……哀れである。

Diploma Policyの覚醒作用に就いて

2010-07-15 10:53:32 | 大学
昨今の会議では、意識が朦朧としてしまうのだが、「でぃぷろまぽりしい」という言葉が盛んに発せられていたように記憶する。

Diploma Policyは、卒業させるための能力を箇条書きにしたようなものらしいが、そこにまた予想通り、「言語能力」や「コミュニケーション」が入っておった……。こういうことをうたっているから言語能力やコミュニケーション能力が上がらないのがわからないのだろうか。勉強できるけど人付き合いがわるいタイプというのは、半端に勉強してきた結果、他人の言っていることや気分が忖度できないほど頭がまわらないだけではないか。そういうのをいつまで仮想敵にするつもりなのだろうか。(本当は、コミュニケーション障害みたいな「病気」のひとを排除しようというあからさまな差別であるように思うのであるが…)

「文章の中には動詞一つを使うこと。」

すごい!文の中に動詞一つでも難しいのに、文章に動詞一つとはな……。

ミューズのミッションの再定義はない

2010-07-13 23:53:35 | 大学
大学内の労働とか研究にいちいち報酬を求めるのは正しいが一方で正しくない。もしかして労働と報酬が絶対に等価になるべし、とか思っているのかもしれないが、そんなことがこの地球上で起こった試しはない。労働はほとんどわけの分からないものに向かって行っているものだ。特に授業や研究はそうではなかったのか。それはボランティアですらないのである。

私は珍しいタイプだと思うけど、いまだに、ミューズの神が命じたので自分は仕事を行うのだ、と思っているのである。冗談だと思うかもしれないが、本当にそうなのだ。書いていて疑わしく想えてきたが……

イニエスタは家に早く帰りたいらしい

2010-07-12 06:53:36 | 日記
まともにサッカーの実況中継みたのは初めてだったけど、
結構、アナウンサーや解説の言葉が面白いな。

「どうして打たないイニエスタ」
「勝者のメンタリティ」

ゴールのとき、「キター」(←どこに来たんだよ)

「~と思いますし、」(←これよく言うよなあ、いったん文を終わらせろと)

今日一番、よかったのが、決勝ゴールを決めたイニエスタ選手へのインタビュー(同時通訳)だな

インタビューアー「おちついてください」(←棒読み)
(中略)
イニエスタ「早くかえりたいです」(←棒読み)

附記)スペインは、無敵艦隊(笑)とか、ダリとかピカソとか内×とかお国自慢がたくさんあるのに、贅沢だな。ところで、画像は、土浦で人生考え直そうと思っていたころ、窓の外を撮ったもの……