★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

宇野的エロイカ鑑賞

2011-04-20 23:17:01 | 音楽


確か中学生の頃か高校生の頃買ったような気がするトスカニーニのレコード「といえよう」。楽聖の第三交響曲である。今日、元気を出すために聴いてみた「といえよう」。

レコード屋の店員が、「あの~、これモノラル録音なんですけど、いいですか?」とレジで聞いてきたのを覚えている。わたくしは諸井誠大先生の『交響曲名曲名盤100』を愛読していて、その第三交響曲のページでは、クーベリックのステレオ録音を無理矢理推薦するために、ずっとモノラルのトスカニーニの演奏を褒めている。という理由で買いに来たのだ、と言う訳にもいかず、おずおず素朴な学生のふりをしたのを覚えている。(私はどうも、中学生の時に読んだ音楽評論の文章にかなり影響を受けているような気がする。しかし宇野功芳氏などの文章はあまり好まなかった「といえよう」。)

この交響曲の演奏がよく聞こえるかどうかは、まずは最初の変ホ長調主和音の二発にかかっている。私が聴いた中では、トスカニーニの演奏がまだ一番よいですね。ここで曲が終わってもよいくらいばっちり(←死語)決まっている。このために、NBC交響楽団のひとたちがトスカニーニに何回罵倒されたかと考えるとちょっとかわいそうである。ムラビンスキーの元では、ミスった奏者はシベリア送りだったという伝説があるし、まさに音楽は、「切れば血の出るような」、「光彩陸離たる」、「いのちを賭けた遊び」、「といえよう」。



「自己点検書」対「だまし絵」

2011-04-19 23:34:04 | 思想


昨年度の自己点検書とか活動実績書とかをつくっていたら、目眩がして2時から4時までソファで横になっていたわたくしであるが、作り終えた後も、中村雄二郎の『共通感覚論』を読んでまたもや目眩がしてきたわたくしであるようだ。自己点検書とか何とかは、エッシャーの「だまし絵」並みに疑似(pseudo)空間だ。

「共同幻想」対「武者小路的なかよし」

2011-04-18 10:26:09 | 漫画など


昨日は、『共同幻想論』をよみながら、気力がつづかなくなると『うしおととら』を読んで、やっと最終巻までたどりつきました。私は漫画を20歳ぐらいを過ぎたあたりから読み始めた人間なので、この世界にはあまり思い入れはない方だと思う。それでも、『うしおととら』には結構感心した。(半年前、デビルマンの民俗学バージョンですか、と言って馬鹿にしてたのを謝罪しますっ)6年間、夢中で描ききった勢いはすごいと思う。というのは、これ以上長いストーリー漫画を書いてもテンションが続くとは限らないし、途中で気が抜けた漫画もいろいろあるようだからである。これは、漫画家に限らず、物書きや研究者にも言えることであり、一つのことをどれくらいの期間で仕上げるかは、志の高さやその人の力量や体調、流行など、さまざまな要因が偶然上手くいかないとなんともいいがたいところがある。最後の二巻あたりの盛り上がり方を見ると、もう物語や人物が勝手に暴走しているという感じであるが、作者がこの状態にためらいを持たなかったところが大きいのではなかろうか。この物語は、登場人物が殺されたり悪そうだったりするやつも含めて全員が幸福になるというできすぎた話なのであるが、描いている作者が幸福なので、釣られて幸福になってしまったのではなるまいか(笑)とはいえ、作者がこのような状態になったのは、どうも普通ではないなあ、この感じには覚えがあるなあ……と思っていたら、作者が「後書き」のようなところで、「大好きな武者小路実篤詩集」とか言っていたので、あ、これか……、と納得した次第だ。なかよきことは美しきかな、これを6年間かけて描いたのが『うしおととら』である。なかよきことを描くには、これだけのエネルギーと時間がかかることをわたくしは作者の藤田氏から学んだよ。

対して、吉本氏の方は、「幻想」に拘るので、藤田氏のなかよき空間を一見引き裂くようでいて、なんとなく底の方で、「なかよきことは美しきかな」と言っている気がする。どうも私はそこの一点だけは違和感を持つ。

研究者と社会と

2011-04-18 10:00:18 | 大学


昨日だったか、一昨日だったか忘れたが、原発推進学者が16人、「国民に深く陳謝する」とか謝ったそうである。「謝るだけまし、謝りもしない政治家は死ね」、「今更おそい」、「老い先短いやつが何言ってもしょうがない」、「謝る暇があったら現場に行ってこい」、「チェリノブイリ級になったときの言い訳かよ」、「東電からの賄賂を全額返せ、話はそれからだ」、「この16人以外に一番ひどいやつがいるに違いない」、「国民だけに謝るんですか、他国民はどうでもいいんですか」などなど、さまざま声があるであろう。

日本では、謝罪というもののほとんどは、本当は謝っていないときに行われるものであるので、当然であろう。むしろ、上のような侃々諤々を誘発してガス抜きをするための儀式である。とはいえ、この謝罪は下手すると歴史的な転換にもなりかねんので、あまりオオゲサに報道されている訳でもないようだ。テレビを見てないから分からない。

わたくしが、研究者の端くれとして思うのは、こういうことである。……たまたま原発推進学者は、金に釣られてか、鉄腕アトムばりの平和利用を本気でやろうとしてたか、本当は原発で世の中滅ぼすのが目的だったのか、東電に親戚や恋人がいたからか、指導教官に脅されてか、学内の資金獲得競争に勝ちたかったのか、原子力と聞くと頭が回転し始める才能であったのか、人文的に馬鹿だったのか……なんなのかは知らないが、それぞれ理由があって、こんなことになってしまった訳である。しかし、おそらく、こんなことは、原子力村でなくても研究者の世界ではそこここで起こっている。

例えば私は、教育学部内の若手研究者のためのなんとか寄金に「近代文学の宗教的なんとか」というテーマで応募したところ、速やかに落選したので、次年度「近代文学の〈子ども像〉の変遷」に変えたところ、速やかに通過した。私は〈子ども像〉にあんまり興味はないが、大学院や免許更新講習の授業で一応講義してみた。そして改めて、こんなテーマは、まだアリエスを読んで感動してしまうおっちょこちょいにしか通用しないテーマだったなあと思ったわけであるが、私もこれから、はずみで講義の成果を発表していい気になってしまう可能性がある。無論、自分なりの発見がなかったわけではなかったから……。もっと金の使い道にうるさい寄金なら、確実にきちんとした研究成果を求めてくるはずだ。その場合、私は自分の本来の研究を棄てて、〈子ども像〉を騙る研究者になっていたかも知れない。この程度のことは起こる。これが上の16人の場合原子力推進であったかもしれない。

大学院のときには、ある教員のために研究費申請の原案をつくった。そのときのテーマは、私ですらとうてい思いつかぬような愚劣なものだと思ったが、なんとなく学会の流行の一部を形成しそうだったのか、協力研究者のメンツがよかったのか、私の魂を売った作文が素晴らしかったのか、めでたく研究費を獲得した。ただでも、その教員とは必ずしも仲がよいとはいえなかったが、この仕事を断っていたら何をされるのか分からないと思ったものである。私の被害妄想の可能性はかなりあるが、そんな雰囲気が漂うのが大学である。

現在、研究費獲得のために手段を選ばず、などという発想は、別に研究者にとっては良心の呵責どころの話じゃなくなっている。「社会に貢献」とか「書類のわかりやすさ」から「審査委員の気に入るように」、「学会懇親会での立ち回り」に至るまでいろいろレベルはあるが、この程度の妥協はお茶の子さいさいである。最近は、どこからか批判やクレームが付きそうな文章は、「わかりやすくしろ」という脅しが心の中に聞こえてきて、自主的に内容を変えている。「わかりやすさ」への要求は、しばしば、通念や空気への従属の要求として行われているからこそ脅しに感じる。……というか、そういう心の声に応えようとなんだか燃えてくるタイプこそが最近は研究者になる、そういう可能性だってあるのである。かかる研究者にとっては、脅しはもはや他者に対する使命として昇華され、必要不可欠なものになる。こうなってくると、下手をすれば、一見ラディカルで、かつ寄らば大樹の陰的な研究者ができあがる可能性が出てくる。……大学の中にいると、研究者にはかかる心の仕組みがある程度必要であるかに思われてくるから不思議だ。そう思わなければ同調圧力で確実に気が狂う。最近は、クレームが付きそうだったり自分の知らない言葉があるだけで文章の内容を変えさせたいと思う人もいるが、端から見てると、気が弱いのか、本気なのかわからないところが不気味である。私もいつそうなるか分からない。

以上のような感想を持つので、私は「社会のため」を研究目的にするのには反対だ。科研費に関するもろもろの議論を聞いていると、本気かどうか分からないが「社会的な意味のないものは存在する意味がない」と口走ったりする研究者がいるが、とんでもない話である。なぜなら「社会のため」などという言葉の内実は、時代の空気に、あるいは誰かの意図や利益に沿ったかたちに、いかようにも変化し得るし、実際変化しているからである。実のところそれを知ってて、申請書類に手心を加えてしまったりするのに、社会も何もあったものではない。「人間のため」の方がまだましかも知れない。ましだというだけであるが。

研究者の世界というのは、こんな中で、なんとか独創性をぎりぎり追究するしかないような、すさまじい世界である。のみならず、自分の好きなことをやっているうちに、どかんと建家が爆発してしまうこともあるから大変である。

ムーレンレイカー対ゴッドファーザー

2011-04-17 01:58:27 | 映画


「007/ムーンレイカー」を観た。いまよくあるうざったい心理描写がないのがよいね。共に戦う男女が、一組ではなく複数でてきたのがよかったです。

「東京ゴッドファーザーズ」を観た。もはや、日本では、救いは奇蹟に頼るしかないという事態を描いた、絶望的な映画である。

昨年と春眠

2011-04-16 23:24:08 | 文学
http://www.bensey.co.jp/book/2382.html

昨年の夏書いた「楕円幻想」論が、勉誠出版から最近出た『文科の継承と展開』という本に入っているおるから、物好きは読んでもよいよ。買ってもいいよ。12000円だけど……。今読むと私自身この論文には殺気を覚える。夏の暑さのせいということにしておこう。このような論文は二度と書くまい。あと、年末に出た『×川大学国文研究』には、芥川龍之介の「三つのなぜ」論が載っているが、これは読んだ後全て忘れて下さい。お願いします。

そんな意味で、昨年度はひどい年であったので、今年はなんとか面白いものを書きたいものである。今日は風邪でぼーっとしていたのであるが、ギデンズらの『再帰的近代化』を読みながら、熱のせいか、「あれ?こいつらあんまり大したことなくないか?」と思ってしまったよ。いつものことである。こういう勘違いがどこに飛んでいくのか分からないのが、研究の面白いところでもあり怖ろしいところでもある。

つい蒲団に入ってしまい夢を見た。

……大学の駐車場に自転車を止めていると、和服姿の顔色の悪い50歳ぐらいのご婦人が「訪ねてきました」と自転車の横に立っていた。彼女は、私の幼稚園時代の担任の先生であり、世界で最後のマルクス主義者なのだった。学食で、ふたりで紅茶を飲みながら、昔の木々について話す。もういかなくてはならない、と彼女が言うので、私は体が重くなるのを感じながら「最近の地下は……」と彼女の足下につぶやくと、「いつもささやいています。もう夫を思い出すのはやめたのです」と言う。私は、「ユダの裏切りに酔うことにも限界が来たのだ」というある哲学者の言葉を想い出していた。「ただ酔うべきなのである」と、その哲学者は文章を結んでいた。私は、彼女を校門で見送った。私はいままで来た道が確実に間違っていると感じ、もう歩くことができなかった。

レベルセブンに変更のお知らせ

2011-04-13 23:17:43 | 漫画など


「ウルトラセブン」の第12話が、被爆怪獣を扱っているとゆーことで封印されているのはよく知られているのであるが、もうこれからはレベルセブンの時代なので、「ウルトラセブン」自体も封印だ。というか、こんな巨大な宇宙人が暴れたら復興に時間がかかるのでno thank you.


授業アンケートへの回答

2011-04-12 12:49:49 | 大学
×川大学でも授業の終わりには「学生による授業評価」アンケートとかゆーのをとる。これによって教員も自分の授業を点検し、よりよい授業をつくりあげていくのである。学生はそもそも評価に晒されているので、学生にも教員の評価をする権利はあるのである。あくまでも授業は学生のためになされなければならない。

以上、棒読みでした。

授業評価も、みんながやってるのでうちもやらなきゃ、で始まった。というか、学生はお客様なので、くれぐれに不満を持たれないように丁寧に扱えよ、という脅しを教員に与えるのが根本的な目的であろう。大学の教員は、本当に優秀なのを除いてだいたい優等性病に罹っており、どんな馬鹿な競争でも一位になりたがるという習性がある。どんな出来の悪いアンケートでもやり始めたら勝手に点数を上げるのに努力し始めるから大丈夫。このモチベーションが、日本の行政官僚的なしくみを支えている。こういう評価基準を作っておけば、上にも上がれず下にも下がりたくないタイプであるところの大多数の教員や学生がそこそこ喜ぶような空気が醸成され、根本的な批判能力だけはないタイプが威張り始める。これは緩やかな管理にとっては非常によい環境である。そんな環境ができあがれば、もうアンケートは実効性がないのでやめということにしてもよい。……ねらいはこんなとこかな。上の連中の頭が多少なりとも働いていればの話であるが。

そもそも、学生を本気で評価し基準に満たない学生を気持ちよく落第させるつもりもない環境で、双方向性が成立するはずがなく、教員と学生が気を遣い合うキモチワルイ空間が生じただけだ。さすがに、表面的にはかっこわるいから、厳しいふりして根本的には学生に媚びるとか、媚びるふりしてやっぱり媚びるとか、ただ媚びるとか、媚びるまでもなく学生と同レベルだったとか、いろいろなパターンがあるが、大切なのは教員自身の処世になってしまった。

しかし、こんな状態は世の中の必然としてしかたない。どうせいつもこうなる。問題は、いかに破滅前に楽しむかである。

で、数日前に、昨年度の共通科目「文学A 恋愛小説を解剖する」の授業のアンケートが私のところにとどいたので、見てみる。アンケートの裏には自由記述があり、これがなかなかおもしろい。というわけで、ここにいくつか書き出し、私がコメントして差し上げる。大事なのは双方向性だからなっ。(ちなみに、下のものには、私が勝手に追加したものもある。本当のものがいくつ混じっているかは私がだけが知っている。)

1、パロディ小説を書くのは難しかったけど、楽しかった。色んなビデオや音楽を視聴できてよかった。(5名)→ビデオや音楽の授業じゃねえよ。今年出直してこい。

2、自分で「文」を書くということができて色々とそのことの難しさやおもしろさが色々と発見できたという意味で、非常に自分にとって意味のある授業でした。(1名)→「文」じゃねえよ、「文章」だろ。あと「色々」と「意味」の繰り返しがいまいちです。やり直しっ。

3、恋愛小説といってもいろいろあるんですね。さすが専門家です。(2名)→私が恋愛小説の専門家だとは初めて知った。

4、恐縮ですが、先生のブログを見させてもらっています。ニコニコ動画の登録タグ、あれはすごいですね。わかります。(1名)→授業と関係ねえ……

5、この授業がきっかけで、近代文学にハマりました。大宰治の作品が特に気に入ったので、端から順に読んでいます。(1名)→転落人生にようこそ。あ、あと作者名が間違ってるぞ。

6、マーベラスに楽しい授業でした。できることなら毎年参加したい位です。毎年喜々として参加する私に単位を下さい。(1名)→この授業をマーベラスとか言っているあなたは私並みにマーベラスに頭がいかれてると思います。あと、あなたに単位をあげたかどうかそもそもわからんぞ。

7、先生、サンデルの真似してました?(1名)→決してしていない。君っ、名前は?

8、先生の容姿は、恋愛小説とかあまり似合わないと思います。(1名)→いまから、単位を不可に変更しますから、名を名乗れ!

9、先生に恋文を書きたいのですが……(50名)→はやく書け!提出期限は厳守するように。

10、空欄(約50名)→渡邊の授業何いってんのかさっぱりわからない、共通科目でレポート5回はありえねえ死ねっ、とか言いたいんだろう。

春簇生

2011-04-12 08:45:37 | 日記

今住んでいる場所も結構山の中ではないかと思ったそこのあなた!


どこからでも生えてくる草


仲間で増える草


猫様の路地


三人姉妹


群れたがりマスメディア


孤高のお花様


教授会つまらんなあ


上を向いて歩こう


へばりついていこう


錆びても上を向いてへばりついていこう


水は指定の場所に流れなければならない


地面にへばりついていこう

桜グッドバイ

2011-04-11 09:56:53 | 文学


もう桜散るの時節である。よく見えないかも知れませんが、実際派手に散りつつある。というわけで、猫ちゃんが桜散るを見物しに来ました。


「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」
「ばからしい。あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。」
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
 急に不快になって、さらにウイスキイをがぶりと飲む。こりゃ、もう駄目かも知れない。しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかわる。どうしても、ねばって成功しなければならぬ。


「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教えてあげましょうかね。」
 自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん。少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。
「ああ、酔った。すきっぱらに飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」
「だめよ!」
 鴉声が蛮声に変った。
「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」


 すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒る事は無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」


 キヌ子は立って、ドアを開け放す。
 田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。


 グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎゃっという甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然として、
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
 とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
 キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。


 しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」


 色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、


「ありがとう!」
 ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。
(太宰治「グッド・バイ」)

ナルニア神学論争

2011-04-11 07:27:11 | 思想
「ナルニア国物語 第1章──ライオンと魔女」を観た。観はじめて、昔読んだ「ナルニア国ものがたり」のことだと気づく。まず題名で気づけよ……。あ、この話の結末は、人には言ってはいけない類のものではないか……、と自分に言い聞かせているうちに、あまりにも〈筋を追ってます〉という映画の進行ぶりに瞼が閉じかかってしまう。

ドイツに爆撃されるロンドンから疎開した子どもたちが、仮の宿である学者先生の家の衣装箪笥の中に入ったら、ナルニア国という魑魅魍魎が跋扈する世界に迷い込んでしまった。そこで魔女とか、予言への信仰を強要するビーバーとか、救い主のライオンとか、がでてきて子どもたちを試す。なんだかしらないが、突然サンタクロースまで現れ、武器をくれたりする。救い主ライオンが罪を犯した次男の代わりに死んだと思いきや、案の定復活するが、そのうらで正義に目覚めた子どもたちが、魔女率いる軍団と戦争をおっぱじめている。最後は、ライオンが助けに来て魔女を***。なぜか、こどもたちは、ナルニア国の王様になってしまう。……何年かして、すっかり王様気分で歳をとっていた彼らであるが、偶然衣装箪笥から元の世界に戻ってくる。

やっと第一章終わりか……。この物語の最後の最後の結末まで私は知っている。故に、とりあえずおまえらはやく全滅すればよいのに、と思ってしまった。

そもそもこれは聖書の話である。神の国は現実にあるのかイデア的なところにあるのか、復活したのはキリストか神の子か、ハルマゲドンはあるのか、聖書はどこまで信じるべきなのか、などなどの論争に火をつけたいとしか思えない話である。それにしても、この物語の作者と喧嘩したカール・バルトなんかも、物語を一生懸命書けばよかったのに……。そうすれば、もっと万人に知られていたかもしれない。バルトをあまり読んだことはないが、やっぱりそれは無理だったのであろう。西田幾多郎が小説を書かないのと同じようなことであろう。私の興味は、例えば西田を否定したときに、我々がどのような神学的な物語に陥るかということである。「ナルニア国ものがたり」は、そのような物語の例として私にはうつった。

ある人々が言うように、現代は宗教論争の時代であろう。実際に悪魔や精霊がスクリーン上で跋扈することによって、ますますそれは加熱するであろう。しかし、少なくとも、目には目を、ではないが、映像には映像をというかたちで加熱しはじめたら、もうおしまいだと私は思う。バルトが必要である。

こんなことを考えたのは、昨日、郷原佳以氏の『文学のミニマル・イメージ』というモーリス・ブランショ論を読んだからかもしれない。私は、すごくこの本を懐かしくよい意味で楽天的なものだと思った。この本が終わったところから郷原氏はどうするんだろうと思った。私は、氏の言うように「文学と他の芸術を接続すること」がこの本の後に可能であるとはあまり考えない。

ところで、映画のなかで正義のきつねが出てきたのであるが、吹き替えをやっているのが、シャア大佐だった。すぐ死んだけど。