★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

キル・ビル3に期待するわたくし

2012-03-23 06:13:36 | 映画


「キルビル 1・2」は、院生時代、つい二日連続で映画館に通ってしまった映画である。タランティーノというより、主演のウマ・サーマンのファンだからであるが、観てみたら、ルーシー・リュー(チャーリーズ・エンジェルやアリー・マイラブで有名であろう……)や、島崎藤村なき(この方はいまや岐阜県出身です)あとのわが郷土の英雄──田中要次まで出ていたので気に入った。

タランティーノがこの映画を深作欣二に捧げているのはよく知られているであろうが、深作映画をコラージュしても「キルビル」にはならない。「キルビル」は任侠映画ではなく、根本的にミュージカルだからである。ウマ・サーマンが、ルーシーの部下の「クレイジー88」を切りまくる場面があるが、あれはどうみてもミュージカルの群舞だった。踊る代わりに人を切ってるのである。というより踊りながら切っている。というわけで、この映画を日本へのオマージュだと解したいのであれば、深作映画より歌舞伎とか能に近いとすべきではなかろうか。

最近、ウマ・サーマンの子育てが一段落したら、「3」が撮られるというニュースを見た。これまでは現在能だったから次は夢幻能にして頂きたい。殺されたルーシーや田中要次や「クレイジー88」や「ビル」たちが、ウマ・サーマンの夢の中で、自分の首や腕を洗う夢を見るのである。

チベット・ナチス・ジャパン

2012-03-22 23:27:55 | 思想
http://news.nifty.com/cs/world/chinadetail/rcdc-201

「1500年前の仏像2895体の埋葬坑を発見、新中国後成立最大規模―河北省」

このニュースを聞いて単純なわたくしはこれを思い出した。



はじめて観た時、ダライ・ラマ14世の家庭教師みたいな役目にあったハラーが、ドイツにいる息子に会いたいので、共産党に押しつぶされようとしているチベットから去ってしまうのがいまいちだなあ、と思った。そこはあんたそもそもチベットになんらかの神秘的幻想を抱いていたナチスの一部の名誉に賭けて壮絶な討ち死にだろうよ、と思った。

地政学をつくったといわれるカール・ハウスホーファーの「太平洋地政学」とか「大東亜地政治学」とかを院生の時に読んだけど、どうも彼は日本人を根本的に海洋民族と捉えていたらしいのだ。確かに、地球は陸だけじゃないだろう、海もあるよ、というより殆ど海だわよ。海を制する者、世界を制す。瀬戸内海に世界初の文明があったらしいからな。日本は大陸よりも太平洋を制して生存圏を確保すべし、ヨーロッパは総統に任せとけ、か。一説によると彼やナチスの一部がチベットに注目していたのは、ブルワー・リットンの、未来の超人種を描いた『来たるべき民族』の影響があるらしい。なにやら超能力を持った地底民族の話らしい。で、チベットにそれがあるとかいって調査に行った人がいるらしく……。ナチスの原爆製造が遅れたのは、こういうSF的な問題の探求に夢中になりすぎたためらしい、と誰かが書いていたような気がする。本当だか知らないが。

……どうも、山国出身の私が思うに、いかにも海辺にも高山にも住んだことのない、出遅れた田舎者の考えそうなことである。やはりいかに帝国主義といえども地道に侵略ということを考えんといけないのではなかろうか。海だからといって、真空じゃないんだよ。秘境といったって、住んでいるのは普通の人間である。侵略ですらジャンプは禁物なのである。アメリカが世界最高の帝国主義なのは、そこんとこを例の侵略開拓で思い知っていることなのではなかろうか。

すなわち、日本やナチスの空想的侵略がその下手くそさ加減でいきなり頓挫したのに対し、上手い連中はまだまだやる気満々であって、今現在問題なのは、その「地道に侵略」の末裔の連中であろう。心配なのは、その地道さに「Xメン」とか「HEROES」にみられるような「未来の超人種」への期待が混じっていることである。いまとなっては、沈没覚悟で海に乗り出したりてくてく歩いて畑を広げたりする経験がないだけに、遅ればせながら日本やナチスの境地に達する恐れがある。

ハウスホーファーは、たしか「大東亜地政治学」で、日本をはじめとして太平洋縁の国は地震になれているから強いとかいっていたような気がするが、かかる見解もますます怪しいな。ハウスホーファーを支持する当時の日本の学者達も、これで「島国根性」をぬけだして広い太平洋に乗り出せるとか言っていた訳だが、今回の地震でも分かったように、日本は、島国という抽象物ではなくて、しょっちゅう地震に襲われ津波が押し寄せるただの小さい陸地なのである。大きさ以外は大陸とまったく違わない。

内田樹の日本辺境論でも読んでみようかな……。

春三題

2012-03-20 08:16:43 | 大学

薄曇りー


鳩食事ー


昨年ご卒業の4年生のみなさん、お元気ですか。まだ君たちの花束の一部が生きております。今年の花束はもう枯れそうです。

吉本隆明氏死去

2012-03-17 06:18:11 | 思想


 あ、間違えた「虚体っ」は埴谷雄高だった。

 吉本については、いずれ書こうと思う。ここ数年吉本論ブームだったから、もうみんな追悼は済んでるんじゃないか?わたくしも昨年、柄谷行人「場所と経験」論を書いて吉本についても言及したけど、まだ書き足りない気もするから、書くかも知れない。

 匿名批評といえば×田×輝とかを想起するが、彼は文体に強い癖があったので消えます消えますと言いながら全然消えていなかった。むしろ、2ちゃんねらーとかツイッター患者の先祖は吉本氏かもしれない。とにかく、この人は、間違いも気にせずにしゃべりまくり書きまくりの人であって、本当に吉本氏が書いてるのかしゃべっているのか分からなくなってしまうほどである。塾で朝の一〇時から夜の一〇時までほとんど休みなしに授業をやった経験があるが、まさにそのときに「私」が消える。労働とは何か、疎外とは何かを私はその時悟ったね。吉本氏がやったのはそれじゃなかろうか。民衆の原像だかを、普通はイメージで示そうとするのが文学者というものだが、彼は違う。自分が「民衆」だからそのまましゃべっていればよかった。というより、誰でもそうなのだが、彼はそこんとこをきちんと自覚していたのだ。ここまでの自覚はちょいと勉強した人には難しいと考えられていたが、じつはそうでもなかったのである。
 ただ、現今のネット世論の方々は、吉本氏をもっと真似て、たどたどしい語り方をしないと目立ってしまうから気を付けた方がよいかもしれない。吉本氏の「あー、えー、あの~、言語はコミュニケ~ションの道具という考えをわたしは否定しましたぁ~。あー」というたどたどしい語りが懐かしいわ。ネットのコミュニケーションはやっぱり独り言の応酬であってコミュニケーションとはいえない。まさにこの状態も、吉本氏は予言していたわけだ。

 空想的ユートピアンが歳をとって、せっかく日本の伝統の研究によってあらたな人民革命の可能性が開かれようとしていたのに、公務員は国歌を歌えとか教頭センセはちゃんと教員が口パクをしてるか監視せよ(あ、あれは自主的にやったのか。教頭は歌いながらご苦労なことだ。)とか、明治政府もびっくりのレベルに議論を落としたい輩が目立ってしまう今日この頃である。小学校の学級会だったら、きまりを守ってない奴を「せんせー、史郎くんがまた掃除の時間に虫いじってました~」などと告発すればよいかもしれん。むろん学級会は怨嗟と嫉妬が勝つ場所なのでそれでもいいかもしれない(よくね~w)が、そんな風に世の中うまくいくのであろうか。かわいそうな末端の教員とか公務員を虐めてもしょうがなかろう。例の知事は、支配階級エリートの小ずるさをなめてるんじゃないか?明治以来に視野を限ってみても、天皇崇拝をとりあえずの団結のために「かのやうに」導入しなければならないほど、権力に群がる「自称エリート」の足の引っ張り合いと小ずるさはすさまじかったとみなすべし。今日の世界だって、どうせそんなもんだ。下級役人のほころんだ団結を怒ってるうちに、もっと頭のまわるずるい連中に寝首をかかれるぞ。たぶん彼の目指すのは、よく言われるようなファシズム=ハシズムではなく、行動力があり頭の切れる資本家と仲良くする帝国主義的な何かである。だから彼は個人の「自立」すら唱えるのである。彼にとってむしろ日本の社会主義的ファシズムが自分の足を引っぱっていると感じているはずだ。ただ、コンプレックスがある「自称エリート」はむしろそういう帝国主義を嫌うはずである。

 吉本氏の考察は、そのずるい連中から精神的に極限まで離れ、例の知事に期待する学級会的精神からも離れたら、何が見えてくるか、という気分で為されたのかも知れない。考えてみれば、いざ氏がいなくなってみると淋しい気もしてくる。アカデミックな世界はどちらかというとさっきの知事みたいな人間が潜在的に多いからである。

大井浩明氏が弾く、ベートーベンが弾いたピアノ

2012-03-13 23:58:39 | 音楽


大井浩明氏と言えば、クセナキスの「シナファイ」のCD(タマヨ/ルクセンブルクフィル)以来知られている人である。「シナファイ」はピアノ音楽史上最も難しい曲といわれ、高橋悠治が弾いていて流血したとか……そんな伝説がある。もっとも、何を以て難しいとか易しいとかいうのはそれこそ難しい問題であって、私なんか、昔、バイエルで流血したからな……。というのは冗談としても、以前、あるバイオリニストにきいたところ、メシアンよりモーツアルトの方が遙かに難しいのだといっていた。

私もピアノを始めた頃思ったことだが、レガートの終わりはどのくらいのタイミングで手を離すべきか、スタッカートの場合はどうか、スラーがついてない左手のドソミソドソミソはどんな風に弾いたらいいのか、こんなことすらとっても難しい問題である。例えば、グールドは、モーツアルトの有名なK545の左手を、曲の場面場面でじつに興味深いかたちで弾き分けている。

最近の大井氏はベートーベンのピアノソナタ全32曲を、作曲者がその作曲時に弾いていたであろうフォルテピアノで弾き分けるという試みをしている。初期のフォルテピアノはほぼチェンバロみたいな音がして、音の減衰も余韻もまったく現在のピアノと違う。大井氏の演奏を聴いて思ったのは、上の初心者すら躓く問題は、ある程度、想定されている楽器に関わる問題だったということである。(というわけで、私がピアノがあまりうまくならなかったのは現代のピアノのせいだ)そのフォルテピアノはベートーベンの生きている間に急速に現在のピアノに近づいていく。とはいえ、「ワルトシュタイン」や「熱情」ソナタのときのフォルテピアノにおいても、現在からみればチェンバロの響きが残っている。おそろしく乱暴にいえば、当時のフォルテピアノは、高音の音色と低音の音色が違う。低音の響きも、今のピアノみたいにドカーンというみぞおちに来るような響きがない。熱情を練習した時に思ったが、何でこんなうるさい左手の連打(←う、腕がつる~)を書いてるんだベトベンは……と思ったが、たぶんそれでよかったのである。

大学の時、私も、弾けもせんくせして、いっちょまえに、ショスタコーヴィチやプロコフィエフのソナタに挑戦したものだが、ここらは昔のフォルテピアノじゃ鍵盤が足らん……というわけで私が弾けなくても大丈夫。

上のCDは、「田園」「ワルトシュタイン」「熱情」。私は、「田園」が好きです。

間文化現象学への愛

2012-03-10 23:18:06 | 思想


立命館大学で行われた、間文化現象学プロジェクトワークショップ「間文化性の未来に向けて―精神/共存から時間・歴史へ―」に行ってきた。ハイデガーの共同体論とか動物論を論じていた古荘真敬氏の報告目当てで行ってみたのだが、氏の発表は当日に題名が変更されており、和辻哲郎のハイデガー批判をハイデガーとの共通性に於いて見てみたら?といった発表だったので、得をした気分である。和辻を昔読んだときの私の印象は、「間柄(笑)」といった感じであって、周りにもそんな人がいたと思う。しかし、共同体と個人の関係の再構築の気運に乗って、最近はだいぶ読み直しが進んでいるようだ……。しかし、そうなると、和辻が換骨奪胎したハイデガーのナチスがらみの例の話題には触れない訳にはいかず、ワークショップでもそこが論議されていた。私は、和辻の「風土」や「間柄」は、島崎藤村の情景描写みたいなもんだと思うのであるが、そこは私なりに考えてみたいと思った。

あと、村上靖彦氏や吉川孝氏の、看護やケアを現象学的に記述することと倫理の関係の議論も面白かった。わたしなど、文学のテキストは「所詮現実じゃないわな」と安心しているところがやっぱりあるのだが、看護やケアの現場を目の前して現象学をすることは、そもそも現象学とは何だったかを問い直すことになるのであろう。事象の記述とはそもそも可能なのか……、という感じである。しかし、完全に素人のわたしからみると、そのような本質的な議論を駆動する緊張感を現象学自身が求めているのだと思う。文学が戦争や病を求めるのと一緒である。村上氏の「今我々は個人個人が新興宗教を作っている。そういう面白い時代に我々は生きている」という言葉が印象的であった。確かに、「面白い」のかも知れない。本当は吉川氏が論じていたマックス・シェーラーの「愛」とやらも、シェーラーにとって見ればその「面白さ」の一種かもしれない。

近代文学の学会だったら、話が煮詰まったところで、「倫理は大切だ、というかイデオロギーも大切だ。ついでにハイデガーは許せん」とかいう、何故か怒り大爆発の発言がでてくるところであろう。さすが哲学の人達は違う。そんなことを言う人はいなかった……。

猿の惑星──未来は危険

2012-03-09 22:40:29 | 映画


旧「猿の惑星」シリーズは、もう何回も見直している。第1作がむろん一番いいけれども、他の4作もなかなかよい。第1作目の何がすごいて、いろいろすごいが、音楽がすごい。作曲のジェリー・ゴールドスミスは、どうみてもジョン・ウィリアムズより100倍すごいと思う。

テーマは完全に核兵器批判だった。第4作目の「征服」──、未来からきた猿の子孫であるシーザーがいきなり智慧ありすぎたのはよかったが、猿の訓練所を焼き討ちしただけで、「はい人類負けました」となり、第5作の惨状を見るに、どうやら人類は猿との戦争でまた核をぶっ放したらしいのだ。とにかく、核兵器批判のためなら猿の手をも借りた訳であった。

で、新しい「猿の惑星──創世記」を見たが、なかなかよかった。今度の作品は、アルツハイマーを直す薬を作って猿に投与していたところ、猿が天才になってしまったでご猿、という話である。あ、ありそうだ(笑)。シーザーは猿の収容所で軍を組織して脱走し、警察の攻撃を跳ね返す。シーザーはしかし結局猿だから、自分、森の家がいいよ、ということで身を引いたにもかかわらず、例の薬は人類にはあんまりよくなくて、パンデミックで人類滅亡でご猿のだった。

今回のシーザーは、チェスもできるし人間の言葉を解することが出来るが、途中までまったくしゃべることができなかった。でも飼い主とは心は通じ合っているらしい。(ほんとかよ。)旧「征服」では、シーザーは本当はぺらぺらしゃべれるのに我慢していたという設定であった。なにしろ、人間の差別や民主主義についてまで語れる猿だったのである。そりゃそうだ、親も猿界一の科学者だったんだから。思うに、旧作の登場人(+猿)物は、理系でも文系の学問にもつよいw。新作は、どうもあやしいな。シーザーを育てた科学者も経営者に「お前は専門は強いがどうやって働いたらいいかまるで分かっていない」と言われている。もしかしたらアスペルガーかもしれん。シーザーも知恵がついてたわりにいきなりぶち切れたりするタイプだった。まだ彼はちんぴら軍団をつかって小競り合いしかやったことのないところの、気は優しいが筋肉馬鹿だと見なすべきかもしれんのだ。これがリーダーじゃあぶないぞ、猿の未来……。人類は……もう滅びたらしいのでどうでも良い。

とはいえ、シーザーが血のつながらない祖父のために暴力をふるって刑務所に入り、同じような連中と手を組んで、家に帰らず暴力革命をやりコミュニティをつくるところは、さすが家族の絆的全体主義の国とは違う!「猿の惑星」の猿はもともと日本人の比喩だったはずなのに!あちらは猿まで自立と自治だ。日本にいた猿たちはどうだったのであろうか。