★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

早送りでないスラヴォイ・ジジェク

2012-03-09 05:35:27 | 思想
私も何回か自分の授業する姿をビデオに撮られたことがある。わたしは案外せかせか動いているから落ち着こう落ち着こう、といった具合に考えながら授業をやっている。……と思っていたのだが、実際に映像を見たところ、不気味なスローモーションにみえるのだ。この人どこか悪いんじゃないかと思ったほどである。

最近見て、これは参考になるぞ、このアクションは!と思ったのが、このスラヴォイ・ジジェクのインタビュー。早送りかと思ったがそうじゃなかった。来年は、この感じでやってみよう。

http://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/zizek


グラン・トリノ 対 ヤマハの原付

2012-03-08 19:17:45 | 映画


勢いでイーストウッド監督の「グラン・トリノ」を見てしまった……。だいたい「グラン・トリノ」と言われて何も頭に浮かばなかったわたくしがこの映画の神髄を分かるかどうかかなり怪しい。この映画のDVDのおまけ映像は何かな、やっぱりみんな移民問題とかカトリック問題について語っているのか、と思いきや、「男たるもの車好き」みたいな特集映像であった。イーストウッドをはじめ、最後に無防備の老人を彼がてっきり拳銃を出すと思って蜂の巣にしてしまうような超絶馬鹿ギャングどもの俳優までが「ぼくはこんな車が好き」とか語っていた。わたしは何のことやらさっぱりである。車の種類といえば、「クラウン」と「ランボルギーニカウンタッコ」(いやまちがえた「カウンタッキ」だっけ?「カウンタッチョ」だっけ?もうどうでもいいわ)とか、えーと後何かあったか、あ、アメリカ人がナンパによく使う「便ツ」!……こんな程度であるわたくしがいきなり「1972年型グラントリノ」とかしらんわ。

グラスルーツ右翼のイーストウッドのことである、「グラン・トリノ」が何かそんな思想とシンクロするところがあるんだろう。車を売るのではなく車を作ることへの愛着がアイデンティティと関係していた時代があったのかもしれない。この車をモン族の少年に譲り渡す主人公はそんな感覚や思想を譲渡したとみてよろしい。たぶん……。ちなみに私は、ヤマハの原付の方がかっこいいと思う。

……という話はどうでもよいとして、この映画は、イーストウッドがフィクションの世界で犯してきたグラスルーツの正義のための大量殺人を反省し、その懺悔を教会にせずにマイノリティーの少年にしたうえで、マイノリティーの中にいる超絶馬鹿ギャングに蜂の巣にされることで、彼自身がキリストになる話である。主人公の老人は、ポーランド移民の朝鮮戦争帰りの元フォード社員。彼は命令か否かはよく分からんが、朝鮮戦争で少年を撃ち殺した経験がある。そういう彼と仲良くなるのは、ベトナムから追い出されてきたモン族の少年。しかしこの少年と姉を虐めているのは、同じモン族のギャングとか黒人とか。普段仲良くしているのは、トヨタに勤める息子家族ではなく、イタリア系床屋とかアイルランド系土建屋とか……(ともにたぶんカトリック。当然彼もポーランド系だからカトリックだろう)。この状況で、いかにそのギャングどもが超絶馬鹿で少年の家を襲撃し、姉をレイプしようとも、主人公の老人が誰を殺せるであろうか?ポリティカル・コレクトネスの思考になれた我々は、そう考えてしまう。ただし、逆に、表向きは誰をも市民として扱いそのじつ差別に対しては現状維持にコミットし続けるのも我々である。(アメリカではもっと状況は過酷だろうが……。)最後に、復讐に行くと見せかけて、老人が命を投げ出してしまうのは、学校も就職もままならない虐げられた(かつて自分が殺した)アジア人に撃たせようという贖罪である一方で、「相手はどうせ超絶馬鹿なので絶対自分を撃つ」と確信できたからであって、ここに一点、「馬鹿は死んでも治らん」という差別が潜んでいなくはない。たぶん、現実にはそこまで後先が見えない馬鹿は少数で、彼らはもっと小狡い手に出るのではなかろうか。上の「ポリティカルコレクトネスを信奉する差別主義者」のやるように。ただ、無抵抗の抵抗で暴力を終わらすことも必要だということすら分からない連中には、こうやって分からす他はないのだと言っているように見えた。

というわけで、この映画にプロテスタント白人とそれほど馬鹿でもないギャング達を出演させ、老人を「グラン・トリノ」よりヤマハの原付が好きだという設定にすれば、この話は崩壊する。で、実際、そういう設定の方が現実に近いのではなかろうか……。いい話なんだけどな、この映画。日本もポストコロニアリズムとか勉強したんだからさ、A×Bを映画に出してないで、こういう映画出てこないかなあ。

長野県最強伝説

2012-03-08 06:13:49 | 旅行や帰省


愛郷心0の私もよく飲んでいる「御岳百草丸」である。私の田舎の製薬会社がつくっておる。長野県ではめっぽう有名なこの薬である。私も胸焼けとか膨満感によくきくような気がするんですが、いかがでしょう。最近、タレントの中川翔子さん(しょこたん)もよく飲んでいるという情報が、彼女本人からもたらされたらしく、長野県民(のなかのオタク)が狂喜乱舞したという噂である。オタクの行動力を侮ってはならない。これで、全世界の胃弱オタクが百草丸に殺到する日も近い。

……それはともかく、母によると、母の幼少期における(近所の)かかりつけの医者はすべての病気を「胃腸が悪い」ということにしていたらしい。この論法で行くと、長野県民はすべての病気が百草丸で治ると思っている可能性がある。ここで長野県に残る伝説をおさらいしておこう。

1、長野県は仮の姿である。本当は「信州」である。(「神州」でもよい)つまり本当は日本の一部ではなく、アメリカの「州」のひとつである。すなわち、戦後の日本はアメリカの属国であるというより長野県の属国である。

2、長野県民は、「信濃の国」を全て歌える。「君が代」は歌ったことがないのに「信濃の国」は歌える。大阪でなくても、信濃の国の前奏で左翼もいきなり立ち上がる。

3、県が分裂の危機の時、──県議会で喧嘩している議員の耳に部屋の外から「信濃の国」の合唱が聞こえた。つい議員達もつられて涙ながらに大合唱してしまい、分裂の危機を乗り越えた。

4、長野県は日本の中心である(位置的に)。戦時中、大本営も松代に移ったことがある。このときに実質的に東京から遷都したとみてよい。

5、日本で一番高い山は、長野県に存在する。富士山とかしょぼい山がどこかにあるらしいが、長野県にある山の高さを全て足せば、その富士山とやらはゴミみたいなものである。

6、日本の文化は長野県が支えている。①岩波茂雄が岩波書店をつくったから。②「信州白樺」など、大正デモクラシーぐらいの思想をいまだに守っている団体があるから。③長野高校・松本深志高校など、全国区エリート校が多い。たぶん東大生は全員ここの卒業生である。日比谷とか麻布とか灘とか、どこの中学ですか?④全国の教員委員会は、すべて長野県教育委員会の指示で動いている。長野県民は東大がダメなら信州大学に行くからである。⑤エロ小説作者を県知事にしてしまうほどリベラルである。ちなみに、その次の知事も、和光大学にいた有名な学者の兄貴なのでまったく問題はない。

7、長野県民は主食が米ではなく蕎麦である。ちなみに魚があまりとれないので、蝗で代用した。食文化においても日本のマジョリティのはるか先を行っている。

8、万葉集の東歌(野蛮人の歌)に長野県が歌われているとの噂は、京都人が長野県民に嫉妬した結果である。

9、平家政権を実質倒したのが木曽義仲であるにもかかわらず、源頼朝が嫉妬して歴史を捏造した。ちなみに義経は長野県民である。あの小さい体は、田舎者にしかあり得ない。

10、長野県に海がないというのは、嘘である。なぜなら、海の水は長野県が製造して流してやっているからである。海が生命の母であるというなら、長野県こそ母の母である。

11、例の「アップル社」やビートルズのレーベル「アップル」は、長野県の名産物の「リンゴ」の剽窃である。

12、長野県民であるかそうでないか正確に見分ける方法がある。長野県民は、百草丸を数えなくても眼見当で正確に20粒服用できる。つまり長野県民以外は数学が出来ないとみてよい。というより、数学は長野県民以外の人達のために開発されたのである。

マネジメント 対 母なる証明

2012-03-08 03:45:25 | 思想


先日、ある人から私がドラッガーのいう「マネジメント」が出来ていると言われたので、猫の耳が兎の耳になるほど驚いた。人間、長く生きてるといろいろなことがあるものである。だいたい少なくとも私にとって、普段から「イノベーション」だの「コミュニケーション」だの「知識労働者」だのと連呼している人間はただのアホだからである。(ちなみに全部言い換えられるぜ。「革命」、「スパイ活動」、「前衛」。)彼らは「マネジメント」どころではなく「マネ」しかできない。上の写真は、エッセンシャル版だけれども、すごく昔に図書館で元の大著の『マネジメント』を読んだ時には、猛烈に睡魔が襲い途中で寝てしまった。誰でも言うことであるし、彼自身も言うことであるが、ドラッガーにとってナチスとかの全体主義での体験が大きい。彼にとって、「マネジメント」は全体主義への対抗手段であり、それ以外の何物でもない。この姿勢は、いまやファシスト並みにたくさんいるプチ・ドラッガー主義者の、やたら「上から目線」とやらを敵視する傾向に受け継がれている(根拠は全くない)。私の興味は、仮想敵「全体主義」がなくなった世界で、意図せず彼らが全体主義者と化してしまうプロセスであるが、そのためにはこの「マネジメント」を成り立たせているイデオロギーの分析を経なければならないのではなかろうか。

今回、このエッセンシャル版を斜め読みした印象では、要するに、これは「企業人の躾書」ではないか、と思った。彼が力を込めて言うのは、「真摯さを絶対視して初めてまともな組織」ということである。また「何が正しいかより、誰が正しいかに関心を持っている者をマネージャーに任命してはならない」、「真摯さより、頭の良さを重視する者をマネージャーに任命してはならない」ともいう。そんなこと当たり前ではないか。ただし、確かにこの当たり前さが現実の組織にはまったく感じられない。ここあたりは、ドラッガーは完全に倫理を説くキリスト並に非現実的である(笑)。ドラッガー本人は知らないが、こういう説教をすぐさま実現できるものとして強制しようとするほど、人間の機微を知らない人間が全体主義者にもなんやらにもなってしまうのではなかろうか。コミュニケーションについてもドラッガーはこんなことを言っている。「無人の山中で木が倒れた時、音はするか」という公案にたいして、当然「否」である、聞くものがいなければ音はない、この音こそ、コミュニケーションである、と。私は違うと思う。木の倒れた音を人間の表現に喩える神経が分からない。……まあ、分からないではない、企業人にとって聴き手(買い手)が存在しないと考えるのは論外だからである。しかしそう考えたからといって、何かが生まれると考えるのはばかばかしい。ドラッガーはどうも比喩の持つ暴力性の問題をまったく分かっていないのではないか。ドラッガーがよく使う比喩だが、指揮者は企業のマネージャーの比喩にはならないと思う。指揮者を実際にやってみたことのないやつがこういうことを言う。どれだけの能力が必要かわかっているのか。私も知らんが。仕事の内実に対する畏怖がない人間が本当に真摯さを分かっていると言えるのであろうか。あと、根本的なことだけど、そのコミュニケーションがあったとして、それは根本的に相互に合意が成り立つとは限らないんじゃないかな、いや、常に合意はしていないとみるべきである。そのためにドラッガーが木と人間という喩えを使ったのならよく分かる。お互い我々は木と人間みたいなものだ。

要するに、私は思うのだが、──「躾書」は、子どもに対しては将来的にファシストを生む可能性すらあるが、ドストエフスキーやら大江健三郎やらに耽溺して引きこもりになってしまった人が、覚悟を決めるために読むぶんには無害である。

したがって、こういう本をめくった後は文学で是非解毒を……、というわけで、カフカの「ある学会報告」を読み始めたのだが、ちょっと世界が違いすぎたのでくらくらした。で、昨日借りてきた「母なる証明」という韓国映画をみた。監督は、「殺人の追憶」、「グエムル」で世界的に有名になってしまったらしいポン・ジュノである。確かに今回もすごかった。「家族の絆」で全体主義を謳歌している日本人全員を収容所に送り、この映画を鑑賞させよう。反全体主義のドラッガーがそう言っている、と私のなかのドラッガーが言っていた。

ワークライフバランス 対 よしもとばなな

2012-03-06 04:37:45 | 文学


学生のレポート採点のために読みました。
吉本ばななは、彼女がデビューしてきたときに何かにつられて読んだが、たしか私は高校生だったと思う。彼女の本を読了した後は、勉強したり本を読んだりする気がなくなってしまい、それ以来、私はこういう作家のことを申し訳ないが萎靡系作家と呼んでいる。高校生の私にとっては村上春樹もその一味であった。最近、「ワークライフバランス」とかよく言われているが、どうも、萎靡系は、その「ライフ」とやらを無為の私生活とでも考えさせてしまうのではあるまいか。ライフは、炬燵で蜜柑食ったりデートしたりすることも含まれるかもしれんが、「ワーク」が金を得るために行う「仕事」だとすれば、「ライフ」は、自治活動とか宗教活動とか政治家をつるしあげにゆくとか、反原発デモにゆくとか、愛国者同盟の会合に出席するとか、子どもを教育するとか、そんなことも含まれるのである。「はやく帰って私生活」といったスローガンに、疲れた社畜より元気な社畜の方が便利(だいたい主婦業を馬鹿にしてるんじゃないのか?こういういい方は……。)といったイデオロギー、あるいは、仕事は手抜きでいいや精神が感じられるだけではない。前提として、上のような多様な活動に対する抑圧、ないしは多様な活動に対する想像力の欠如を感じる。多様な「ライフ」が認められたというより、それが抑圧されているから、「ワークライフバランス」とかが安心して流行るのではなかろうか。また、「バランスをとれ」という言葉の真の目的は、物事を真剣に考えている人間の足を引っぱることだった訳で、「みんながそうしてるんだから、お前もちょっとは譲歩しろ(俺=みんなの言うことを聞け)」と言っているだけの場合も多い。それは「中庸」とか「手打ち」ですらない。実際はどこかに仕事の押しつけが行われている。本人はバランスをとっているつもりでも、誰かがそのバランスを支えるためにバランスを崩して必死にフォローしているかも知れない訳だ。だいたい、ふつー、「ワーク」も「ライフ」も何でもそうだが必死にこなすのに精一杯で「バランス」をとっている場合ではないんじゃなかろうか。そうだ、「バランス」ではなく「綱渡り」なら分かる。これからは「ワークライフ綱渡り」にしよう!

話が逸れたが、改めて吉本(よしもと)ばななを読んでみると、高校生の私が厭だったことが、ちょっと違う様相を呈していた。彼女の小説にあった少女漫画風のテイストをちょっと脇に置くとして、作者は我々の「何もしていない状態からの逃避」を禁じているだけなのかも知れない。作者の小説から我々は鏡に映ってさえいない状態での我々の姿を視るので厭なのである。鏡に映す時にはもうその行為自体に何か「逃避」がある。この前、村上春樹のマラソン体験記とか、小澤征爾との対談本を読んだが、どっちもまるで体調の悪い時の自分の思考そのものが書かれているような気がして本当に厭であった。村上春樹がマーラーを語る様子など、酔っぱらった私がくだを巻いているようであった。ここまで読者の姿を見通しているのはさすがである。

私は、『どんぐり姉妹』の末尾の文は、「どんぐり姉妹は今日も行く、と私は心の中でつぶやいた。」ではなく、「どんぐり姉妹は今日も行く。」の方がよいと思ったが、このよいと思った状態が、まさによしもとばななが書き付けた文章に出ているではないか(笑)さすがである。

みじかくも美しいボレロのパロディのような

2012-03-05 03:26:25 | 映画


「Elvira Madigan」というスウェーデン映画で、邦題は、「みじかくも美しく燃え」。私が生まれる前の作品。

とにかく、Pia Degermarkのとても人間とは思えん美しさで心中映画であることを忘れる。当時、映画館を出た人は皆、「妖精って本当にいたんだ!」と口々に言ったであろう。

筋は、「曽根崎心中」のようなものとはちがう。どちらかというと「舞姫」である。この映画に元になった心中事件と「舞姫」の時代はほぼ同じだしw。しかし、この話は、豊太郎が妻子持ち軍人でエリスが綱渡り芸人だった場合みたいなかんじで、相沢みたいな友人のとめるのも聞かず、二人は森の中でさっさと心中してしまうのである。立身出世が意味なくなるとこわいのう……。つまり、このような話は、才子佳人小説の時代にとどめを刺すものであろう(笑)。最後に、蝶々と戯れる少女を男が一発で撃ってしまうところは、「西部戦線異状なし」のラストみたいなものではなかろうか。人間をじりじりと追いつめる戦争とか差別とかが問題なのである。してみると、この映画の代名詞ともなったモーツアルトの21番協奏曲第2楽章も、なんとなく、ショスタコーヴィチの7番のボレロのパロディの如く思えてくる。音楽までが二人を森へ追いやり追いつめる感じがする。想像では、わたしはもっとロマンチックで流れるような映画だと思っていたのだが、ヌーヴェルヴァーグの影響か何か分からんけれども、カクカクした感じで映画が進行する。このカクカクもまた、ショスタコーヴィチの「タカタカタ タカタカタ タカタカタカタカタカタカタ」というスネアドラムのようであった。

いつでもいっしょにぽっくりぽっくり

2012-03-04 01:50:01 | 映画
つい先頃、或る友人があることの記念として私に小堀杏奴さんの「晩年の父」とほかにもう一冊の本をくれた。「晩年の父」はその夜のうちに読み終った。晩年の鴎外が馬にのって、白山への通りを行く朝、私は女学生で、彼の顔にふくまれている一種の美をつよく感じながら、愛情と羞らいのまじった心でもって、鴎外の方は馬上にあるからというばかりでなく、自分を低く小さい者に感じながら少し道をよけたものであった。観潮楼から斜かいにその頃は至って狭く急であった団子坂をよこぎって杉林と交番のある通りへ入ったところから、私は毎朝、白山の方へ歩いて行ったのであった。
(宮本百合子「鴎外・漱石・藤村など――「父上様」をめぐって――」)


 常子はこの事件以来、夫の日記を信ずるようになった。しかしマネエジャア、同僚、山井博士、牟多口氏等の人びとは未だに忍野半三郎の馬の脚になったことを信じていない。のみならず常子の馬の脚を見たのも幻覚に陥ったことと信じている。わたしは北京滞在中、山井博士や牟多口氏に会い、たびたびその妄を破ろうとした。が、いつも反対の嘲笑を受けるばかりだった。その後も、――いや、最近には小説家岡田三郎氏も誰かからこの話を聞いたと見え、どうも馬の脚になったことは信ぜられぬと言う手紙をよこした。岡田氏はもし事実とすれば、「多分馬の前脚をとってつけたものと思いますが、スペイン速歩とか言う妙技を演じ得る逸足ならば、前脚で物を蹴るくらいの変り芸もするか知れず、それとても湯浅少佐あたりが乗るのでなければ、果して馬自身でやり了せるかどうか、疑問に思われます」と言うのである。わたしも勿論その点には多少の疑惑を抱かざるを得ない。けれどもそれだけの理由のために半三郎の日記ばかりか、常子の話をも否定するのはいささか早計に過ぎないであろうか? 現にわたしの調べたところによれば、彼の復活を報じた「順天時報」は同じ面の二三段下にこう言う記事をも掲げている。――
「美華禁酒会長ヘンリイ・バレット氏は京漢鉄道の汽車中に頓死したり。同氏は薬罎を手に死しいたるより、自殺の疑いを生ぜしが、罎中の水薬は分析の結果、アルコオル類と判明したるよし。」
(芥川龍之介「馬の脚」)


見よ、蒼ざめたる馬あり、これに乗る者の名を死といひ、陰府、これに随ふ
(「ヨハネ黙示録」)


冬の曇天の 凍りついた天氣の下で
そんなに憂鬱な自然の中で
だまつて道ばたの草を食つてる
みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です。
わたしは影の方へうごいて行き
馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。
ああはやく動いてそこを去れ
わたしの生涯の映畫幕から
すぐに すぐに 外りさつてこんな幻像を消してしまへ。
私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!
因果の 宿命の 定法の みじめなる
絶望の凍りついた風景の乾板から
蒼ざめた影を逃走しろ。
(萩原朔太郎「蒼さめた馬」)


私たちは、人間が見てはならない蒼ざめた馬を見てしまった世代なのだ。それは数限りない死の影です。革命、内乱、戦争、建設、粛清、反動・・・ロシアが体験したこの半世紀は、人類の苦難と栄光の歴史の縮図です。
(五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」)




Come on Seabiscuit!

 信じるより他は無いと思う。私は、馬鹿正直に信じる。ロマンチシズムに拠って、夢の力に拠って、難関を突破しようと気構えている時、よせ、よせ、帯がほどけているじゃないか等と人の悪い忠告は、言うもので無い。信頼して、ついて行くのが一等正しい。運命を共にするのだ。一家庭に於いても、また友と友との間に於いても、同じ事が言えると思う。
 信じる能力の無い国民は、敗北すると思う。
(太宰治「かすかな声」)


まあわしは誰かとちごーて逃げも隠れもせん!ちゅうこっちゃ!わしとの対戦を逃げまくって何が無敗の王者やねん。
(ベアナックル)


 ぱっと発馬機がはね上った。途端に寺田は真蒼になった。内枠のハマザクラ号は二馬身出遅れたのだ。駄目だと寺田はくわえていた煙草を投げ捨てると、スタンドを降りて、ゴール前の柵の方へ寄って行った。もう柵により掛らねば立っておれないくらい、がっくりと力が抜けていたのだ。向う正面の坂を、一頭だけ取り残されたように登って行く白地に紫の波型入りのハマザクラを見ると、寺田の表情はますます歪んで行った。出遅れた距離を詰めようともせず、馬群から離れて随いて行くのは、もう勝負を投げてしまったのだろうか。ハマザクラはもう駄目だ! と寺田は思わず叫んだ。すると、いや大丈夫だ、あの馬は追込みだ、と声がした。ふと振り向くと、ジャンパーを着た「あの男」がずっと向う正面を睨んで立っていた。白い顔が蒼ざめている。自分とおなじようにスッて来たのだと、見上げていると、男は急ににやりとした。寺田はおやと正面へ振りかえった。白地に紫の波型がぐいぐいと距離を詰めて行く。あっと思っているうち、第四角ではもう先頭の馬に並んで、はげしく競り合いながら直線に差し掛った。しめたッと寺田が呶鳴ると、莫迦ッ! 追込馬が鼻に立ってどうするんだと、うしろの声も夢中だった。鼻に立ったハマザクラの騎手は鞭を使い出した。必死の力走だが、そのまま逃げ切ってしまえるかどうか。鞭を使わねばならぬところに、あと二百米の無理が感じられる。逃げろ、逃げろ、逃げ切れと、寺田は呶鳴っていた。あと百米。そうれ行け。あッ、三番が追い込んで来た。あと五十米。あッ危い。並びそうだ。はげしい競り合い。抜かすな、抜かすな。逃げろ、逃げろ! ハマザクラ頑張れ!
 無我夢中に呶鳴っていた寺田は、ハマザクラがついに逃げ切ってゴールインしたのを見届けるといきなり万歳と振り向き、単だ、単だ、大穴だ、大穴だと絶叫しながら、ジャンパーの肩に抱きついて、ポロポロ涙を流していた。まるで女のように離れなかった。嫉妬も恨みも忘れてしがみついていた。
(織田作之助「競馬」)


その時におさんと云う者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬を偸んでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞が下りた。
(夏目漱石「吾輩は猫である」)

JAKOB THE LIAR

2012-03-03 04:52:21 | 映画


ハナ・テイラー・ゴードン演じる少女がきれいだった。ゲットーの中で、BBC放送が戦争の終わり近しといっていた……などの嘘を付き続けるジェイコブは、最後あっけなく射殺されてしまう。ジェイコブの夢(嘘)、そしてその夢を共有する彼が密かにかくまっていた少女がみるゆめ夢は──、夢か現か、ソ連軍が、ユダヤ人をのせた収容所にむかう列車を食い止め、戦車の上でジャズバンドが演奏するという最後の場面に結実した、のではない。ジェイコブが少女をかくまう場面からあとは、全て夢にちがいないのである。

プリシラの救い

2012-03-02 00:57:12 | 映画


『プリシラ』という映画は見そびれていたが、遂に観た。三人のドラァグクイーンがオーストラリアを旅するロードムービーである。途中で、アボリジニとの交流とかが描かれ、砂漠のなかを音楽に乗って軽快に進んでいくので、わたしはつい「イージー・ライダー」のような悲惨な結末を思い浮かべて、不安になっていたが、そんなことはなかった。よかったよかった。

それにしても、この映画でも音楽のセンスが素晴らしく、日本の映画でよくみられる「音楽が とにかくすべてを ぶち壊し」からは遠く離れた映画であった。冷静に考えてみると、ドラァグクイーンたちの居場所は、シドニーの舞台の中でしかあり得なかった訳だから、かれらは自分たちがまさに砂漠の中を歩いているようなものだということが分かったはずなのである。息子となかよくなったり、彼氏が出来たりした人もいたわけだが、それは付け足しのようなものだとおもう。救いは音楽にしかないように思われた。

「俺に似たひと」讃

2012-03-01 22:50:06 | 文学


平川克美氏については何冊か読んだうち『移行期的混乱』で印象に残っている。たぶん、内田樹氏とともに知られてきた人ではなかろうかと思う。平野謙などが生きていたら、氏らをまとめて「新内向生活派」とか「新身体的実感派」とか呼ぶに違いない(笑)マッチポンプしておきながらなんであるが、そんなレッテルはどうでもよい。平野氏が対比するであろう(←もういいわ)柄谷行人とおなじく彼らの発想の元にあるのはマルクスであるが、読み方の違いがあるのである。あと、好きな作家の違いかな……。我々の世代が勘違いしてはならないのは、彼らは彼ら自身の世代に於いても孤立しているであろうということである。

今回の平川氏の『俺に似たひと』は、氏自身の父親を介護した体験を元にした私小説のような本であるが、「放蕩息子の帰還」や「和解」といった言葉が示すように、神話的な話を造形しようとして、──言ってみれば、ある種の感情的な規範?を表現しようとしたことが明白なように思われる。だから逆に、小説的行文の中に装入されるツイッターの記録が生々しく感じられる。ツイッターは神話と現実との通路を果たしているのである。ツイッターが嫌いなこともあって、私はその生々しさにそのツイッターの部分をじっくり読むことが出来なかった。しかし、その生々しさとは別の次元が、本の背後に広がっていることに気付く。それは、意外なほどほとんど語られていない、平川氏の父親の人生や平川氏自身の人生である。

「そういうことかと、俺は思った。一年半の間、介護を続けてきて、いちばん俺が必要なときに、俺はいなかったということか。
 最も会いたいときには会えず、最も必要なことはついに語られないのが、ひとの世の常なのかもしれない。思い通りになる世の中などは、どこにも存在していない。」

介護の末に、病院に駆けつけてみたら、死に目にあえなかった時のせりふである。しかし、このせりふ以前にすでにこのことは語られていたはずである。以前、内田氏が「三丁目の夕日」を褒めていたのをみて、あの映画をつくった連中に近い世代のわたしとしては「あんなもん、嘘だらけですわ、想像ですわ」と思ったものだが、平川氏のやり方なら言わんとしていることは納得できる。故に、決してドラマや映画にしないで戴きたい。人の人生を滅茶苦茶にして欲しくない。あと、「恍惚の人」などを読んでからこの本を読むと好いのではなかろうか。平川氏の文体がいかに選択的であったかが分かろうというものである。たぶん……。