★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

すんなりとかっこうのいい渦巻形の円柱が列をなして

2014-03-18 23:55:17 | 文学


 とある大きな町に植物園があって、園内には、鉄骨とガラスづくりのとても大きな温室がありました。たいそう立派な温室で、すんなりとかっこうのいい渦巻形の円柱が列をなして建物の重みをささえ、その円柱には、枝葉模様をきざんだアーチが、かるがるともたれかかっておりました。そのアーチのあいだには、鉄のわくどりがさながらくもの網のように一面に組みあげられて、それにガラスがはめこんでありました。とりわけ太陽が西に沈みかけて、赤々とした光を浴びせかけるとき、この温室はまたひとしおの美しさでありました。そのとき温室は一面にぱっと燃えたって、真紅の照りかえしがきらきらと五彩に映えわたるありさまは、さながら細かにみがきをかけた大きな宝石を見るようでありました。

――ガルシン「アッタレーア・プリンケプス」(神西清訳)

B. Tchaikovsky Gake No Ue No Ponyo

2014-03-13 23:12:22 | 音楽


ボリス・チャイコフスキーの「テーマと八つの変奏曲」をはじめて聴きました。
https://www.youtube.com/watch?v=GTdzAWq6DR0
https://www.youtube.com/watch?v=eTkXjuFWrhU


繰り返して聴いていたら一種のゴスペルに聞こえなくもないという気分になってきたので、

こういうのも聴いてみた

https://www.youtube.com/watch?v=01N6dMUBNXQ

(Gake No Ue No Ponyo)

路傍は高萱と水草と、かはるがはる濃淡の緑を染め出せり

2014-03-12 01:54:02 | 文学


 世の人はポンチネの大澤(パルウヂ、ポンチネ)といふ名を聞きて、見わたす限りの曠野に泥まじりの死水をたゝへたる間を、旅客の心細くもたどり行くらんやうにおもひ做すなるべし。そはいたく違へり。その土地の豐腴なることは、北伊太利ロムバルヂアに比べて猶優りたりとも謂ふべく、茂りあふ草は莖肥えて勢旺なり。廣く平なる街道ありてこれを横斷せり。(耶蘇紀元前三百十二年アピウス・クラウヂウスの築く所にして、今猶アピウス街道の名あり。)車にて行かば坐席極めて妥なるべく、菩提樹の街樾は鬱蒼として日を遮り、人に暑さを忘れしむ。路傍は高萱と水草と、かはるがはる濃淡の緑を染め出せり。水は井字の溝洫に溢れて、處々の澱みには、丈高き蘆葦、葉闊き睡蓮(ニユムフエア)を長ず。羅馬の方より行けば左に山岳の空に聳ゆるあり。その半腹なる村落の白壁は、鼠いろなる岩石の間に亂點して、城郭かとあやまたる。左は海に向へる青野のあなたに、チルチエオの岬(プロモントリオ、チルチエオ)の隆く起れるあり。こは今こそ陸つゞきになりたれ、古のキルケが島にして、オヂツセウスが舟の着きしはこゝなり。

――アンデルセン「即興詩人」(森鷗外訳)

木刀

2014-03-11 22:43:01 | 文学


 二人の生活はいかにも隠居らしい、気楽な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の真似をして、その隙には爺いさんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである。

――森鷗外「じいさんばあさん」


欧米の小説がわが知識層に圧倒的な歓迎を受ける最大の理由は、単なる流行は別として、そこには、たゞ「人生らしい人生」が描かれてゐるからである。「人間らしい人間」が、一切の距りを超えて、われわれ異国の読者に親しく話しかけるからである。デンマークの王子もフランスの売笑婦も、ロシヤの農民もアメリカの主婦も、すべて、人間としての完全な皮膚をもつて生き、すなはち欲望し、祈り、嘘をつき、笑ひ泣いてゐる。読者は、それらの作品によつて、全身を撫でまはされるといふ感じがする。日本の作品がやゝきまりきつたところを撫でるのとは大ちがひである。われわれは、西洋文学によつて、自分のからだの隅々に、さまざまな感覚が眠つてゐたことを教へられ、自分の「全身」がはじめて生気をおびて来るのを感じる。われわれの社会、われわれの同胞のすがたからはどうしても受けとることのできなかつた「全き人間」のいのちの息吹きが、やうやくそこで、われわれの魂の故郷を告げ知らせる。精神の愉悦が言葉どほりのものとなるのである。

――岸田国士「日本人とは?――宛名のない手紙――」


 もし天国を造り得るとすれば、それはただ地上にだけである。この天国はもちろん茨の中に薔薇の花の咲いた天国であろう。そこにはまた「あきらめ」と称する絶望に安んじた人々のほかには犬ばかりたくさん歩いている。もっとも犬になることも悪いことではない。[…]わたしたちはあらゆる懺悔にわたしたちの心を動かすであろう。が、あらゆる懺悔の形式は、「わたしのしたことをしないように。わたしの言うことをするように」である。

――芥川龍之介「十本の針」


精神界に於ける勢力は

2014-03-10 22:37:22 | 文学


 さて右の如く偉大なる法王を出したカソリック教の総本家バチカンも星移り物変わり現代にあっては物質世界に於ける勢力は、昔日の如くではない。しかしながら精神界に於ける勢力は、全世界を通じて三億五千万の信徒を有し我大東亜共栄圏内にありても、大約二千万人の信徒を持っていることによって、尚その偉大性を保持しつつあるものといわざるを得ない。その羅馬法王庁へ公使を派して、彼我尋常の外交関係を形成したことは我国外交の明朗性を示したものということが出来る。しかもその法王庁や、各国大公使の特殊的社交場であって、最も公平なる世界ニュースの集積地たる以上は、公使を置いて以って我国現在及び将来の国威発展に資する必要がある。

――国枝史郎「ローマ法王と外交」

這裏の消息

2014-03-09 18:42:48 | 文学
当面の珍事は大に人を動かすが故に深からん。然れども露骨にして含蓄を欠くが故に浅しとも云ひ得べし。一笑にして万斛の涙を蔵するものあり。泣かざれば泣くと思はぬものには此笑は無意義なるやも知るべからず。吾は却つて是等をこそ深きものと思へ。這裏の消息に通じるものはAustenの深さを知るべし。(夏目漱石「文学論」)

今日は、Jane Austen の研究者の最終講義を聞きに行ってきた。漱石も熱中したオースティンであるが、上のよく知られた、彼女を絶賛する箇所についていえば、漱石にしちゃあんまり「深く」はないところではなかろうかと思う。「文学論」の本領はたぶんこういうところじゃない。ただ、漱石がこんなことを言わなければならないと感じたほど、日本の写実の世界は、今も昔も、深くも浅くもないものをやってしまうものなのではなかろうか。いったいこれから何を教育しようとしているのか知らないが、「這裏の消息に通じるもの」だけが、大学に居てほしいと願うこの頃である。


平成ワンワン大行進

2014-03-08 10:40:49 | 文学
「ありゃあ、情報が漏れている。この中に警察のイヌがいる!」(スティーヴ・ブシェミ)

「犬とハサミは使いよう」(更伊俊介)

「みんな首相のポチになっている」(古賀誠)

「憎いやつだ。わん。わん。」
「わん。わん。わん。覚えていろ。わん。わん。わん。」(芥川龍之介「犬と笛」)

「この世で犬だけが、自分よりも相手を愛してくれる。」(ジョッシュ・ビリング)

「安部警察犬訓練所」(大分市)

「憲法の番人なんだから、安倍政権の番犬みたいなことをするな」(小池晃)

「偉くはないが基本的人権はある」(憲法の番犬・小松一郎)

「権利の主体となるのは、当然人です。犬でも猫でもありません。」(http://www.studybusinessenglish.com/jinken/syutai/)

「自分を失った人間が百億おっても、それこそ烏合の衆に過ぎない。自分を認識しないでただいたずらに他人の真似をしたがるのは、あたかも人間が犬の真似をするのと同じである。そこには何に誇りもない。」(松下幸之助)

「『週刊読売』(後の『読売ウイークリー』)記者を経て、政治部記者となる。『週刊読売』の記者時代、鳩山一郎が脳出血で倒れたときに、鳩山邸(現鳩山会館)で張り込みをしていた。あわただしい気配がしたため、屋敷の中をのぞいたが、当時秘書だった石橋義夫が大きな犬を連れてきて、追い出された。その後、屋敷を出てきた大野伴睦に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、次に現れた政治評論家の岩淵辰雄には、「(自分は)鳩山家の者ではない」と言われた。結局、鳩山が倒れた確証を得られないまま、デスクからの「死んだのでないのなら放っておけばいい。そろそろ帰ってこい」と指示された[17]。警視庁出身の社長正力松太郎の眼鏡にかなって、自民党党人派の大物大野伴睦の番記者になった。以後保守政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする」(渡邉恒雄 Wikipedia)

「戦歿馬慰霊像・鳩魂塔・軍犬慰霊像」(靖国)

「犬の視点からすると、飼い主というのは体の長くなった、異様にずる賢い犬である。」(メイベル・ルイーズ・ロビンソン)

「犬を本当に楽しむのには、犬を人間のように訓練するのではなく、自分の一部が犬になるよう心を開くのだ。」 (カレル・チャペック)

「また、捲毛の美わしい少女は泣きくずれながら、父の腕にすがって、声を惜しまずかきくどくのでした。
「ネルロいらっしゃいよ。支度はみんなできてよ。あなたのために、仮装した子供たちが、めいめい贈り物を手にしているし、笛吹きのじいさんが、いま吹きはじめるところなの。あなたと私は、このクリスマスの一週間は、ちっとも離れず炉ばたで栗をやいてていいんですって。クリスマスの一週間どころかいつまでいたってかまわないって。ね、パトラッシュもうれしいでしょう。早く起きていらっしゃいよ、ネルロ。」
 けれども、偉大なルーベンスの画の方にむけたままのその死顔は、口許にかすかな笑を浮べたまま、あたりの人々に、「もうおそい」と答えているかのようです。」(フランダースの犬)

「犬ではない。風見鶏なだけだ」(中曽根康弘についての流言)

エリュアールを読みながら

2014-03-08 02:30:29 | 文学


昔のことは忘れてきた。

Les poissons, les nageurs, les bateaux
Transforment l’eau.
L’eau est douce et ne bouge
Que pour ce qui la touche.

Le poisson avance
Comme un doigt dans un gant,
Le nageur danse lentement
Et la voile respire.

Mais l’eau douce bouge
Pour ce qui la touche,
Pour le poisson, pour le nageur, pour le bateau
Qu’elle porte
Et qu’elle emporte.


「デンデンムシ」は名作

2014-03-07 00:53:17 | 文学


ニュースでもやってたが、わが附属××園舎の歌もまど・みちおの作詞であった。太宰とか中島敦の世代に属するこのひとの詩には、一種の末期の眼があるね……。末期の眼も、「死んだつもり」にならなければたいしたもんである。ただ理屈にはむかんかもしれん……

人生の脊髄に触れた淋しさだ

2014-03-06 19:11:00 | 文学


「怒つちやいけないよ。君達の時代は君一人が絶叫しなくとも、                           。奇蹟のやうに、君の現実的要求よりももつとよい状態で一時にどつとやつて来さうな気さへする。――怒つちやいけませんよ。君が今、一生懸命にさうしたことをしなくとも、もつと静かに、二人の妹さんの運命を見守つて上げる方がどんなにいゝことでないのだらうか。と僕は今、思ふ。僕は両親があつたり妹があつたりすれば、僕は……どうしたか一寸分らないな。」
「…………」
 二人は顔を見合はして黙つてしまつた。寂しい。寂びしい。人生の脊髄に触れた淋しさだ。丘はやがて瞳を外らした、そうして複雑な苦しみに堪えてゐるらしかつた。

――島田清次郎「二人の男」