前記事「東京新繁盛記はまだ続く」のような考えは、時々起こるのだが、とはいえそこまで事態は複雑ではないのではないのではないかと思ってしまうのは、わたくしが根本的に洋学派のせいであろうか。
服部誠一の世界は、ほとんどネットの掲示板じみているが、漱石の「ケーベル先生」とかを読むと、所謂国学洋学漢学の三派鼎立など完全にどうでもよいという気分になる。だいたい、チャイコフスキーやルービンシュタインに習って音楽院を卒業するなどという幸運な天才でありながら、演奏会が嫌いなので音楽家は諦め、ショーペンハウアーで学位を取ったような、そして、ハルトマンの気まぐれ?で日本に送り込まれたような人物が、よくも日本の文化的貧困に我慢できたものである。漱石のエッセイでは、ケーベルは静かな哲学者じみているし、自分の学生たちだけには「さようなら」を言いたかったというような「いい人」であるようだ。が、「ケーベル先生随筆集」を読むと、日本の大学が、昔から「空虚なる、醜悪なる、死ぬばかり退屈なる儀礼」、「大宴会や教授会」に明け暮れており、その教授陣が道徳や倫理を説くに至っては全く以てお笑いぐさである……といった事情が、完全に怒り狂った態で記述されている。しかもケーベルは自分の学生も例に漏れぬと言っているのであり、彼が門下の日本の秀才たちをどう思っていたか、想像がつくというものである。
……とはいえ、ケーベルはケーベルなりに、ありえないものを西洋化以前の日本に見出しているようで、確かに、ドビュッシーと同時代人だったのであろう、か。