世の人はポンチネの大澤(パルウヂ、ポンチネ)といふ名を聞きて、見わたす限りの曠野に泥まじりの死水をたゝへたる間を、旅客の心細くもたどり行くらんやうにおもひ做すなるべし。そはいたく違へり。その土地の豐腴なることは、北伊太利ロムバルヂアに比べて猶優りたりとも謂ふべく、茂りあふ草は莖肥えて勢旺なり。廣く平なる街道ありてこれを横斷せり。(耶蘇紀元前三百十二年アピウス・クラウヂウスの築く所にして、今猶アピウス街道の名あり。)車にて行かば坐席極めて妥なるべく、菩提樹の街樾は鬱蒼として日を遮り、人に暑さを忘れしむ。路傍は高萱と水草と、かはるがはる濃淡の緑を染め出せり。水は井字の溝洫に溢れて、處々の澱みには、丈高き蘆葦、葉闊き睡蓮(ニユムフエア)を長ず。羅馬の方より行けば左に山岳の空に聳ゆるあり。その半腹なる村落の白壁は、鼠いろなる岩石の間に亂點して、城郭かとあやまたる。左は海に向へる青野のあなたに、チルチエオの岬(プロモントリオ、チルチエオ)の隆く起れるあり。こは今こそ陸つゞきになりたれ、古のキルケが島にして、オヂツセウスが舟の着きしはこゝなり。
――アンデルセン「即興詩人」(森鷗外訳)