二人の生活はいかにも隠居らしい、気楽な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の真似をして、その隙には爺いさんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである。
――森鷗外「じいさんばあさん」
欧米の小説がわが知識層に圧倒的な歓迎を受ける最大の理由は、単なる流行は別として、そこには、たゞ「人生らしい人生」が描かれてゐるからである。「人間らしい人間」が、一切の距りを超えて、われわれ異国の読者に親しく話しかけるからである。デンマークの王子もフランスの売笑婦も、ロシヤの農民もアメリカの主婦も、すべて、人間としての完全な皮膚をもつて生き、すなはち欲望し、祈り、嘘をつき、笑ひ泣いてゐる。読者は、それらの作品によつて、全身を撫でまはされるといふ感じがする。日本の作品がやゝきまりきつたところを撫でるのとは大ちがひである。われわれは、西洋文学によつて、自分のからだの隅々に、さまざまな感覚が眠つてゐたことを教へられ、自分の「全身」がはじめて生気をおびて来るのを感じる。われわれの社会、われわれの同胞のすがたからはどうしても受けとることのできなかつた「全き人間」のいのちの息吹きが、やうやくそこで、われわれの魂の故郷を告げ知らせる。精神の愉悦が言葉どほりのものとなるのである。
――岸田国士「日本人とは?――宛名のない手紙――」
もし天国を造り得るとすれば、それはただ地上にだけである。この天国はもちろん茨の中に薔薇の花の咲いた天国であろう。そこにはまた「あきらめ」と称する絶望に安んじた人々のほかには犬ばかりたくさん歩いている。もっとも犬になることも悪いことではない。[…]わたしたちはあらゆる懺悔にわたしたちの心を動かすであろう。が、あらゆる懺悔の形式は、「わたしのしたことをしないように。わたしの言うことをするように」である。
――芥川龍之介「十本の針」