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名前だけ聞いたところではたいそういかめしいお役所のような気がして、書類の山の中で事務や手続きや規則の研究をしている所かと想像していたのであるが、事実はまるで反対で、それは立派な応用科学研究所であって多数の実験室にはそれぞれ有為な学者が居て色々有益で興味のある研究をしているのであった。
色々見せてもらったものの中で面白かったものの一つは「鉛をかじる虫」であった。
――寺田寅彦「鉛をかじる虫」
生協で、柄×行人の『思想的地震』という本を買ったが、「思想的地震」という言葉なんかよくぞ思いつくわいな、と思いながら、授業に行く。批評に注釈をつける演習で、最初に批評家の紹介を一人ずつしている。今日は、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』を紹介する。ああ、その前に、センター試験業務と「労働」について話す、「労働には人間としては快感があるのだ。対して、ロボットに労働やらせることと労働をマニュアル化することは同じことだ」などと話す。演習は「恐るべき子供たち」という××清×のコラムについて。青年と少年、カトリックと罪の関係……。
家に帰って、猫と人間の同情心について話したりする。考えるべきことが多すぎる。
昔の人はいいこと言っているなあ……。小物ほど威張りたがるというのは当然だとしても、「実るほど頭を垂れ」た結果、稲穂が頭の悪い猿に喰われてしまうところまでちゃんと現実を見ている気がする。
御嶽海が二横綱をやぶって好調である。勢い余って優勝してください。木曽には他にいいことないので……
共謀罪つくらなきゃオリンピックができないとか言っていた人がいたそうであるが、そんな危険な行事ならもうやめた方がよかろう。
天皇退位云々の議論が始まったばかりなのに、なぜ元号を変える期限が発表されているんだよ、だれだよ、こういうことを発表させているバカは。
元号が中国の古典からとられてきたことさえ知らなかった輩が何か悔しそうに日本語からとった方がいいとか言いたげなのだが、この際、皇紀にもどせとかいうすっとこどっこいが出現するであろう。わたくしは、源氏物語が好きなので、「桐壺」からはじめて最後までとりあえず順番につけてみることを提案したい。「花散里15年」とか「澪標45年」とか、もうどきどきしてくる。「蛍5年」とか「若紫8年」とかほんといいことありそうである。最近、日本はどうかしているので、いっそのこと「はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた」なんかどうであろう。年数を重ねるごとに自虐的になって行くという仕組みである。
「最終的、不可逆的」とかいう約束が破られているようであるが、「存在論的、郵便的」(逆だっけ?)とかいう題名に比べて、なんという柔軟性のなさであろう。そんなもん、むずむずと破ってやりたくなるではないか。
成人式にでているカブいている若者たちが、あんがいいいやつだったとか報道されていたが、当たり前ではないか。成人式なんかに集まっている時点で従順な輩である。本当の悪人は、成人式には行かず、靖国神社やコミケや国文学研究室とか政治塾に行っている。
公開講座修了。連合赤軍関係の長編を四つも扱ったのでとてもしんどかったが、楽しい小説ばかりだった。わたくしはやはりベースキャンプをはることよりも、小説を読んであれこれ考えるのが好きであった。
来年は高橋和巳の「邪宗門」でもやろうかと考えておる……
わたくしとしては、「革命の子どもたち」よりも「革命と子どもたち」というテーマの方が興味がある。革命家のこどもは確かにいるであろうが、革命の子どもなどというものがあるのかどうかは分からないからである。
大江健三郎はわたくしが崇め奉る作家の中で上から三番目ぐらいの人であり、日本の中でまじめに『聖書』の書き手たらんとしているところなど、あまりにも俗人の底をつき抜けている。
かなり久しぶりに読み直してみた『洪水はわが魂に及び』も、その洪水のように押し寄せる俗っぽいゲスな展開は、そこらのエロ本なんか全く太刀打ちできないほど非道い。大江のことをユーモア作家だとかいう評者をわたくしは信じない。この作者は、本物の俗人であり悪人である。むかし、中上健次が「あさま山荘」事件に同情的な小説とか言っていたが、同情的なのは中上の方であって、大江は、どうみても事件を全否定していると思う。作中で主人公が言うように「すべてよし!」とは、作中の展開のことを言うので、連合赤軍にまつわるすべてについては「すべてだめ、ですよ」であろう。懇切丁寧に、現実の事件のすべてを修正しているではないか。
というのは、適当な感想である。
とはいえ、『光の雨』みたく雨蕭蕭してみたり、『漂流記』みたく舞台が海でも山でもよかろうという感じにしてみたり、『食卓のない家』みたく、最後かわいそうな女子を泣かせてみたり、といった感じで、水量に遠慮がある作家とは、大江は違う。
「自由航海団」が崩壊し、機動隊の放つ放水が「反転して彼(主人公の勇魚)に襲いかかる」あたりから、死という言葉がついに口にされない結末部の、なんだかすごい水は、まるで小学生が消防隊に対して夢みるそれであり、興奮させる。赤軍は、殲滅戦とかいいながら、殲滅する相手を選んでいるのに手間取っているが、大江は本当に人類の殲滅に興奮するタイプである。こういう人間だけが救いを求める。どうもわたくしは、大江氏が実存的な問題にとどまるためには、あまりにも悪人でありすぎるのではないかと思っているのである。
だいたい大江氏は健康のためにプールに通ったりして水が好きなようだが、わたくしはいやだ。水は冷たいし、水遊びが好きな子どもは下品である。我々は海からあがってきた生物なのだ。もうそんなところには帰りたくないね。だから、わたくしは、俺は大江の「自由航海団」みたいなヨットじゃなくて潜水艦だぞ、といわんばかりの「沈黙の艦隊」もいやだし、最近映画化されるらしい「海賊」も好かない。
『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』
当時、どのような受け止められ方があったのかはよくわからない。前半はまるでロードムービーのようなかんじの映像のなかで、革命戦争は現実だ、とかいう台詞が重ねられている。しかし最後に、重信房子が登場して独特な息の長いフレーズを駆使してしゃべり始めるとぎょっとする。ここで映像と言語が一体となった印象を受けるからである。映画は、プロバガンダの最高の形態は武力闘争である、なぜならプロレタリアートの言葉はその闘争として表現されるからだと主張していたが、それはいささか間違っている。プロパガンダは言葉の闘争であり、言葉をあやつる者の姿の闘争である。わたくしは、当時の運動に、現実の反映的表現としての映像に対するある種の過大評価があると同時に、言葉に操られる映像の過小評価があるような気がしているのである。