★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

その言葉につい惹かされて

2019-02-12 23:40:28 | 思想


「複雑精緻をきわめた美しい六花」という言葉が、昔から使われて来た。そしてその言葉につい惹かされて、六花以外の「美しくない」結晶の方が、つい度外視される傾向にあった。


――中谷宇吉郎「雪」


考えてみると自然科学でさえ、「言葉につい惹かされ」ることがあるんだから、文学はなおさらである。と一瞬思ってみたのだが、そうでもないかもしれない。文学ではむしろ美しさを見失う。

働き方改革における光源氏――藤壺との密通を中心に――

2019-02-11 16:47:14 | 文学


いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつるほどさへ、現とはおぼえぬぞ、 わびしきや。

管見では、光源氏と藤壺の密通が、以上の記述ですまされていることは有名である。これに比べると、『東京大学物語』なんか、ベッドシーンに何巻もかけているくらいであるが、案外、この二つの物語には共通点があって、夢か現かが主題である点であった。というわけで、江川達也氏は、『源氏物語』の漫画も手がけているが、少ししか読んでない。『源氏物語』(に限らないが――)がいかに言葉による物語であるか、江川氏の漫画を見て思い知った次第だ。江川氏の漫画を見ていると、言葉と絵を相乗的に過剰にすると、文字が絵にはめ込まれていく気がして、あるいみ現実みたいであった。『あさきゆめみし』は全部読んだがほとんど憶えていないので、なんともいえない。小林よしのり氏などもそうかもしれないが、本来は言葉の人で、それを絵の中でやろうとすると、絵に言葉がはまり込むのである。だから、小林氏の漫画は、いつも絵によってその言葉のメタメッセージや本心が測られてしまい、たぶん作者は「いつも誤解を受けるのは何でじゃろう」と思っている可能性があると思う。ただ、わたくしはそもそも絵を沢山描くことは、言葉にとって危険であることはわかりきっているので、それを押し切れるセンスは言葉向きの人ではないような気がするのであるが……。むろん、言葉の世界は言葉の世界で、紋切り型の稚拙な漫画みたいなものになってしまう場合があり、ネットの言葉なんかはかなりそうである。思うに、ネットは他人との相互の関係が近いんだか遠いんだか分からないので、我々は自分より他人に依存する傾向を強める。だから言葉が視覚的になって、場合によってはヘイト的になる。ヘイトスピーチは案外視覚的なのだ。

密事のあとの、藤壺と源氏の行動の方がこの物語の場合重要はのは当然なのだが、我々の現代社会がなぜかようにその「シーン」を描きたがるようになったのか、それは誰かの研究があるだろうから、探してみるとして――、明らかに、上の場面でも時間が止まっているように、現在でも「シーン」というのは時間が止まっているのだ。我々は時間によってストレスを受けていることは確かなので、それからの解放である可能性はあると思う。p-なんとかサイクルなんてのは時間的なものの典型で、あれはまったくサイクルではないわけである。我々はルーチンワークによって心を静める。その「シーン」もそうである。ほとんどやり方が決まっているのが面白い。昭和時代にやっていた仕事のあとの飲み会+みたいなものも、かなりルーチンであった。

考えてみると、和歌の贈答で少し変化をつけながら多くの密事をこなしていく源氏は、ほとんど「働き方改革」の人であったのかもしれない。

「涙ぞ落つる」考

2019-02-10 16:25:57 | 文学


つらつきいとらうたげにて、 眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。「 ねびゆかむさまゆかしき人かな」と、目とまりたまふ。

先生、このおにいさんが、覗いてます。はやく逮捕して下さい。

さるは、限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけりと思ふにも、涙ぞ落つる。

考えてみると、ここでいきなり「涙ぞ落つる」というところがいい。眼の前にいる少女が藤壺と似ているからといっていきなり涙が出るのはよほどのことであり、そこに心理を越えた作用がある。わたくしはこれは自己憐憫ですらないと思う。源氏は療養に来ているのだが、いろいろな意味で病気なのだろう……。むかし、「だけど涙がでちゃう女の子だもん」というのがあったが、この場面はいわば「さるは涙が出ちゃう似てるんだもん」である。人間こんなことはしょっちゅうある。親を亡くしたこのかわいそうな子はこれからどうなるノー、とか尼たちがしくしく泣いているところに、僧都が来て、近くに源氏が来ているらしいといい、

「この世に、ののしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたまはむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる人の御ありさまなり。」

といって、まずは手紙で挨拶になどと言い出す。完全に生臭坊主であるが、光源氏こそ療養に来ておるのに、それをみて寿命を延ばそうとは卑怯なり。これも考えてみれば、「さるは長生きしちゃう光源氏だもん」みたいなものである。結局、案外、その程度のことで我々は元気になったりするものである。いまでも、左翼と言えば現実が分からんと盛り上がり、右翼と言えば頭が悪いと盛り上がり、大学だー韓国だートランプだー大野くんやめないで~、とうるさい限りである。ちゃんとみてからものをいえやこのクズどもがっと、言いたいところだが、みりゃみたで、涙が出ちゃう、みたいなことになりかねない。

結局、光源氏も容姿と頭の良さに恵まれすぎたせいで研鑽を怠っているのである。勉強すれば、涙なんてほとんど出なくなるからな……

夕顔の非現実性

2019-02-09 23:17:57 | 文学


我にもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえたまふ。

源氏が夕顔と遊んでいたところ、生き霊があらわれる。で夕顔は卒倒して死ぬ。源氏はあまりのことにこそこそと家に帰ってくるのだが、ここの世間体と夕顔の死へのショックで混乱する描写はなかなか迫力がある。これは、これと似たまずいことを経験していないと書けないとみた。で、源氏はそれでも夕顔の死体に対面しにゆくのだ。あまりにかわいらしいので余計に悲しい。ついに、源氏も寝込んでしまった。回復したときの様子が上である。

わたくしは、「君の名は。」みたいな、夢だかうつつだか、そもそも憶えてないや――みたいな話に実感がない。その代わり、紀貫之がある人が死んだときに歌った歌、

夢とこそいふべかりけれ世中に うつつある物とおもひけるかな

のような感じはわかる。それに、――あるものが失われた世界には、別のものがやってくるはずで、それが恐ろしいというのがある。それはまるで生き霊のようである。わたくしが光源氏にみたいな立場なら、とりあえず毎日のように生き霊に悩むはずで、それがあまりない源氏はちょっと何かがおかしい。上の様子でも、「あらぬ世によみがへりたる」と思えるところがなかなかのメンタルなのである。

それはそうと、「夕顔」といえば、小学校一年と二年のときに、夏休みの自由研究で夕顔をあつかって賞まで貰ったわたくしであった。母親にかなり手伝って貰った気がしないでもないが、驚いたのは、台風の時に夕顔は夕方に咲くのをやめて朝咲いたのである。思うに、夕顔もいつもの男を落とすテクニークで源氏なんかをひっかけるから死んでしまったのだ。源氏は光る台風のような危ない男である。やめておいた方が良かったのだ。もうひとつびっくりしたのは、夕顔の実である。この巨大にだらりとたれさがり何の模様もないそれは非常に不気味な感じがした。そもそも花に対してこの実はでかすぎないであろうか……

かのをかしかりつる灯影ならば

2019-02-08 19:03:13 | 文学


君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすく思す。 床の下に二人ばかりぞ臥したる。

入るなよ……

衣を押しやりて寄りたまへるに、

寄るなっ

ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、 思ほしうも寄らずかし。

一晩で太るわけはなかろうが……。はやく気づけよ、このエロ十七歳がっ

いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、

やっと分かってきましたね……でも「あさましく心やましけれど」とは何事か。はやく女に謝罪せよ。

「人違へとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる 心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と思す。

何うだうだ言ってんだこいつは。

かのをかしかりつる灯影ならば、 いかがはせむに思しなるも、 悪ろき御心浅さなめりかし。

光源氏の目的はもはや人間ではなく、おかしかりつる灯影みたいなものでよいそうです。自分が光なだけに。さすがに語り手も、「この頭のワルい心の浅いヤツメ」と言っております。ともかく、光氏は、このあと空蝉の衣装を持って帰り(←窃盗だ捕まえろ)、

空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな

となんとなく、蝉が殻を破って白い姿で出てくるエロチックさを知っている人にはイヤラシくも感じる歌をつくったりしている。何が「人がら」じゃ。しかし源氏がそれほど頭がおかしくみえないのは、衣装を脱いだ人を「空蝉」とさらっと言えてしまうところにあるわけである。漱石なんかになると、こうなる。

肉を蔽えば、うつくしきものが隠れる。かくさねば卑しくなる。今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を留めておらぬ。衣を奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、飽くまでも裸体を、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。十分で事足るべきを、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く描出しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその観者を強うるを陋とする。うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと焦せるとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。
――「草枕」

もはや裸がただの物にみえてしまっているので、かえって、なぜなお我々は興趣を感じるのだろうみたいな疑問と戦う羽目になる。岡崎乾二郎氏は、漱石はモダニズム芸術にある、我々の対象把握を突き崩してしまう、物質がもたらしてくる無数の感覚、すなわち「抽象の力」というものをもうみているのだと述べているが、そうかもしれない。ただ、わたくしは実際に、弱った蝉を手のひらにのせてみたりする方が好きだ。源氏も、女を眺めたりするだけではなく、火影に飛び込む蝉の如き感覚を備えていたに違いない。すごいことである。

Etude in C major Op. 10 No. 1

2019-02-07 23:15:58 | 音楽
Natalie Schwamová – Etude in C major Op. 10 No. 1 (first stage)


この曲は大学の時に、音楽棟でときどき練習してみたが、そのときにわたくしの頭にあったのは、アシュケナージやポリーニの鋼鉄特急みたいな演奏だったので、わたくしの演奏はガタピシガタピシというだけであった。上の演奏なんか、優美でとろけそうである。浅田彰はポリーニの分散和音に対してたしか「城」みたいとか言っていた(?)ような気がするが、ナタリーさんのそれは浪につられて蝶蝶が踊るようである。こんなふうに弾けたらいいなあ……。思想や文章もかくあるべしだ。

「受け身」ということ

2019-02-06 23:00:21 | 文学


「よし、あこだに、な捨てそ」
とのたまひて、 御かたはらに臥せたまへり。 若くなつかしき御ありさまを、 うれしくめでたしと思ひたれば、 つれなき人よりは、 なかなかあはれに思さるとぞ。


帚木の最後のところの贈答はあまり好きじゃないが、かたくなに源氏を拒む空蝉の代わりに、空蝉の弟を横に寝かせている光源氏はなかなかの奴である。思うに、源氏も少年もおなじく若いということが大きいのであろう。若いというのは、自分にエビデンスみたいなものがない状態である。これがいいのだろう。中年が犬をかわいがるのとは訳が違う。

そういえば、千葉雅也のエッセイで知ったのだが、ボディービルをやっている人の中には、ドラゴンボールのサイヤ人を理想とする人たちが本当にいるそうである。千葉氏は、プロレスを非常に受け身的な行為なのだと言っていて、純粋な暴力ってあるのかなあ、――みたいな疑問を提出していた。わたくしも、そんな気分はわかる。光源氏も女性みたいだし、上の場面なんか、わたくしが肩にインコを乗せているときの気分とそっくりである。千葉氏も、最近のエビデンスブームを批判していたが、それは氏が暴力に何をみているかに関係があるのであろう。

わたくしも、最近、受け身であることに興味がある。所謂「寄り添う」ファシズムは嫌いだが、我々の社会が潜在的に求めはじめているのは、そういう受け身の連鎖みたいな状態なのかもしれない。寄り添う行為が極端に受け身であるような……

一緒になって字を書く

2019-02-05 23:59:42 | 思想


ペン先がインキにこう言いました。
「お前位イヤなものはない。私がいくら金の衣服を着ていても、お前はすぐに錆さして役に立たなくしてしまう。私はお前みたいなもの大嫌いさ」
 インキはこう答えました。
「ペンは錆るのが役目じゃない。インキはなくなるのがつとめじゃない。一緒になって字を書くのが役目さ。錆るのがイヤなら鉄に生まれて来ない方がいいじゃないか。インキがイヤなら何だってペンに生まれて来たんだえ」


――夢野久作「ペンとインキ」


こういう「協同」的な考えはクソみたいなものだとしても、最近は、指などの肉体がもにょもにょ動きながら、それがしらないうちに目の前に文字になって現れる魔法な様な状態であるから、私たちは、ペンやインキといった人格さえ持ってそうな者たちに対して無頓着になっている。同じ感覚が人間に対しても働いていないと誰が言える。筆やペンを使っていた昔から、私たちは、自分のみで生成させた意見など表現したことはない。最近なんか、ほとんどネット上の他人の意見を移しているだけの状態になっている可能性がある。自分の意見を書いていると思っている者こそがあやしい。

「ネオナチの少女」雑感

2019-02-04 23:22:20 | 思想


まだ全部読んでないが、上は最近出た翻訳である。少女は生まれてからすぐナチエリートとして育てられた。しかし、同志との結婚、妊娠の過程でそこから抜け出す。翻訳者の後書きでは、彼女が新しい生命を生み出し、新たな人生が開かれる段になって彼女が自分の歩んだ道が自らの選んだ道ではないことに気がついたのではないかと述べている。確かに、そんな感じはしないではなかったが、彼女の回想を文字通りとれば、懐疑はもう少し前からあったので、実際はもっと複雑な行程をたどっている気がする。わたくしなんかも過去を振り返って思うことであるが、転回というものは、非常に少しずつ為されるものである。最近、わたくしは、よくいう「二人の自分の葛藤」みたいな図式をかなり疑っている。それは学生と日々話していても感じることである。――だから、こういう自伝みたいなもので真に難しいのは、過去のパートであり、明確な悔悛なんかがあっても、いやあるからこそなのか分からないが、過去というのは極めて思い出しにくいものである。これはわたくしの資質なのかもしれないが、この本の著者の女性にもなんとなくそれを感じた。おそらくは、彼女もわたくしも、いくらか教育の恐ろしさについて知っているということは重要かもしれない。教育のやり方で、記憶などいくらでも変形されてしまうのである。

そういえば、昔、ある有名な「いじめ」自殺事件がおきたとき、吉本隆明が、いま『超資本主義』に入っているある文章の中で、こういう自殺を防ぐことができたとすれば、彼が親とか教師ではなく同級生のなかでそれを解決することだった、といったことを書いていて、――いじめ対策に積極的に教師が関与しつつあったなかで、勇気のある発言だと思った。ただ、どうも吉本の中に「大衆が大衆として理想的にふるまう」(「あとがき」)というイメージが強固にあるのに、一方で、「共同幻想論」の延長上の問題として、個人と社会と国家を同等に共鳴し合うような様態としてみるという見方があって、大学生だったわたくしは後者についてすごく当時も実感があったが、前者にはまったく共感できない感じがした。上の著者も、もうネオナチだけでなく、一応現在の彼女がその擁護のために戦おうとしている「民主的な制度」もあまり信じているようにみえない。彼女が「文明の輝きというのは実は非常に薄っぺらい」と同時に述べるところからそれがうかがわれる。わたくしが大学で感じているのも同じ感覚であり、それは今に始まったことではなく、底にあるのは、よく言われる「自己肯定感の不足」とかよりも、親しい人間関係への強烈な不信感なのである。それはわたくし自身がもう四十年以上も感じていることだ。わたくしが、屡々学生に、現実やスクリーンのなかにおける、差異の微細なところに何らかの共通点を見出してそれを繋げる努力をするしかないのでは、と言っているのはその感覚からである。吉本の言う「共鳴」に関しては非常に敏感な学生が多いだけに、可能なのは、共鳴をしっかり分析して別の共鳴に組み替えることなのだと思う。

若者たちが、ラブストーリーを好むのは昔と一緒だが、彼女がいま結婚した彼氏をネオナチのなかから見出し、二人でその世界から脱出したように、――そんな関係をのぞんでいるのではないかと思うことがある。そんな、瓢箪から駒みたいなこともあり得なくないわけだ。

文学の教師に出来ることなど限られてはいるが、少しだけ出来ることはあるし、少し酷いことをしないことはできるかもしれない。何しろ、わたくしだって学生にとっては、国家の尖兵には変わりないのである。

附記)というか、わたくしは実際問題として、ネオナチみたいな学生とどう話し合うか今から予習しているのだ。

あはれもまさりぬべし

2019-02-04 09:56:05 | 文学


すべて、よろづのことなだらかに、怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも憎からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし


源氏物語は長くて文脈をきちんと追っていないとよく分からなくなってしまうのであるが、上の左馬頭のせりふなど、一見名言に見えなくもないところが面白い。どうも名作みたいな話には、文脈をぶっ飛ばしても何かすごい感じがするせりふがあって、半可通でもいい気持ちになれるようになっている。私なんかが良い例で、いままでそうやって生きてきているようなものだ。

昔、「人生は一行のボオドレエルにも若かない」の代わりに「ボオドレエルの百行は人生の一コマにも若かない」を書くべきだった、中産下層のコンプレックスがそうさせたのだ、みたいなことを書いていた人がいたが、これはおかしい。さすがにこれでは芥川がかわいそうだ。いまもこうやって出身コンプレックスのレッテルを人に貼ったり自分に貼ったりして自らの行く道を狭くする人が沢山いる。――浅慮や老化というより内省によってそれはなされるのだが、内省はそのプロセス自体で何かがあると錯覚させるものだ。そういえば、後者のせりふからはボオドレエルが百行書いたらどうなるかという感じがし始めて、なんだかやる気が出てこなくはない。わたくしなら、つい「ボオドレエルの百行は人生と関係なし」あるいは、「ボオドレエルにも人生あり」で済ますところだ。でもこれではやる気が出ないからだめなのだ。

そういう意味では、源氏物語の上のせりふからは、あんまり元気は出てこない。光源氏も「品定め」の議論を聞きながらうつらうつらしていたようである。最近、ニュースを見ていても眠くなるばかりだ。ネット空間も含めて全体的に「品定め」をやってるだけだからである。せめて自分の品定めから始めるべきなのだが、それだけは絶対にやらないのが連中の特徴である。自分が対象と混ざっていないと思い込んでいるのがいかにもまずい。表現力や才の問題ではない。