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わたくしは、体調が悪いときに枕元の小説を読んで、案外読めてきたら回復の兆し、しかもその作家はすぐれていると思うことにしている。西村賢太の小説はかなりの高熱でも読めた経験があり、今回も一気にこの本の最後にある中編を読むことが出来た。
生色のない陰気な不機嫌顔にも程ってもんがあるぞ。それに、その肩の後ろにいる年寄りは誰なんだ。背負ってきてんじゃねえよ
これは祖母を亡くし実家に行っていた秋恵にぶつけた言葉の一節である。西村賢太の小説は「私小説」とか言われているから、人格がひとつの物語だと思われているが全く違う。ある意味で、主人公がかかえている「根が**に出来ている」という人格(あるいは、この本の題名のように「廃疾」と言ってもいいが――)が、情況によって次々に交代してゆくのが彼の小説である。我々は、ふつう、人格の統一性を保つために、上のようなせりふを吐く人格を押さえ込んでいるが、この主人公はそれをしないだけのことである。酷い人生を送っていながら、主人公がまったく闊達であるのはそのせいである。
ただ、このこのような達成が、近代文学の雰囲気というより、落語調であるのは気になる。――もっとも、気になるどころではなく、近代文学の叙述文体成立に際して問題だったことが繰り返されているのである。
そういえば、今日、『ビバリーヒルズ高校白書』のルーク・ペリーが亡くなったそうである。彼も、「ジェームズ・ディーンの再来」とか言われて大変だったと思う。再来なわけないじゃないか。