★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

廃疾

2019-03-06 01:00:29 | 文学


わたくしは、体調が悪いときに枕元の小説を読んで、案外読めてきたら回復の兆し、しかもその作家はすぐれていると思うことにしている。西村賢太の小説はかなりの高熱でも読めた経験があり、今回も一気にこの本の最後にある中編を読むことが出来た。

生色のない陰気な不機嫌顔にも程ってもんがあるぞ。それに、その肩の後ろにいる年寄りは誰なんだ。背負ってきてんじゃねえよ


これは祖母を亡くし実家に行っていた秋恵にぶつけた言葉の一節である。西村賢太の小説は「私小説」とか言われているから、人格がひとつの物語だと思われているが全く違う。ある意味で、主人公がかかえている「根が**に出来ている」という人格(あるいは、この本の題名のように「廃疾」と言ってもいいが――)が、情況によって次々に交代してゆくのが彼の小説である。我々は、ふつう、人格の統一性を保つために、上のようなせりふを吐く人格を押さえ込んでいるが、この主人公はそれをしないだけのことである。酷い人生を送っていながら、主人公がまったく闊達であるのはそのせいである。

ただ、このこのような達成が、近代文学の雰囲気というより、落語調であるのは気になる。――もっとも、気になるどころではなく、近代文学の叙述文体成立に際して問題だったことが繰り返されているのである。

そういえば、今日、『ビバリーヒルズ高校白書』のルーク・ペリーが亡くなったそうである。彼も、「ジェームズ・ディーンの再来」とか言われて大変だったと思う。再来なわけないじゃないか。

さらば、もろともにこそ

2019-03-03 23:34:28 | 文学


「まことは、うつし心かとよ。戯れにくしや。いで、この直衣着む」
とのたまへど、つととらへて、さらに許しきこえず。
「さらば、もろともにこそ」
とて、中将の帯をひき解きて脱がせたまへば、脱がじとすまふを、とかくひきしろふほどに、ほころびはほろほろと絶えぬ。中将、

つつむめる名や漏り出でむ引きかはしかくほころぶる中の衣に

上に取り着ばしるからむ
と言ふ。君、

隠れなきものと知る知る夏衣着たるを薄き心とぞ見る

と言ひかはして、うらやみなきしどけな姿に引きなされて、みな出でたまひぬ。


源典侍という五十を越えた人と密会してた源氏が、頭中将に踏み込まれ、ちょっと服を着るから離せお前こそ離せ、帯をほどくぞこのやろ脱がすなおらっ、破けた服の中からプレイボーイの名前が出てしまうぞ、この夏服じゃ薄すぎでもう漏れてるわお前の浮き名なぞっ

とかなんとか言いながら、二人ずたぼろになって女の所からでてくるのである。紫式部は「この御仲どもの挑みこそ、あやしかりしか。 されど、うるさくてなむ」と言っているが、全く遠慮がちなお人である。次の日に、この出来事を思い出してにやにやしているこの二人に近代人のわたくしが一言

GO TO HELL

この二人に言いたいのは、とりあえず、歌のやりとりしていたらやっちまいましたみたいなケモノみたいなあり方の代わりに

正月の青空を見て決めた


といった村山首相みたいな境地にはやいことたどり着いてほしいということであった。

暑い木曾路を西に

2019-03-02 23:23:28 | 文学


「同志打ちはよせ。今は、そんな時世じゃないぞ。」
 十三日の後には、福島へ呼び出されたものも用済みになり、湯舟沢峠両村の百姓の間には和解が成り立った。
 八沢の牢舍を出たもの、証人として福島の城下に滞在したもの、いずれも思い思いに帰村を急ぎつつあった。十四日目には、半蔵は隣家の伊之助と連れだって、峠の組頭平助とも一緒に、暑い木曾路を西に帰って来る人であった。

――島崎藤村「夜明け前」

皆かくのみあるわざにやあらむ

2019-03-01 23:49:05 | 文学


御子たち、あまたあれど、そこをのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。されば、思ひわたさるるにやあらむ。いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、皆かくのみあるわざにやあらむ


パパが息子の本当のパパを目の前に言ってしまった有名なせりふである。今日は、ゼミで、ある論者の、漱石の修辞学的分析について考えた。で、修辞学におけるパトスとかエートスの話をして(エートスの話をやや間違えてしまった……)、トランプの演説が弁論術的には案外教科書的とかなんとかいつものでたらめをわたくしは述べていたが、冗談ではなく、――上の帝のせりふなんか、それがさりげない呟きであっても弁論としての効果を持つなかなか出来のよいせりふであり、実際、これを聞いた源氏は肝をつぶしてしまうわけである。さすが帝、なかなかの御仁である。このせりふをトランプが喋っていると想像してみたまへ。世界はまたまた大混乱だ。エリンギくんは、「おれはもしかしてトランプの息子なのか」と思うかもしれない。確かにそれはありうる、以前にも森元首相の息子に生成したホリエモンとかいう青年がいたから。レヴィナスではないが、私は私の息子、息子は私みたいな認識はそんなに奇異なものではない。

すると、帝は何もかも知って、「まあいいではないか、お前も俺もこいつも私だからっ」と言っているのかもしれない。源氏はまだ若く未熟だから、これからますます色道修行の旅にでるのであった。自分探しの旅なんて、自分の老いを確認したところでやっと始まると言うことも知らずに……。