さぬきいろいろ41

鏡の箱の代り、このあこ君といふ童女しておこせたり。黒塗の箱の九寸ばかりなるが深さは三寸ばかりにて、古めきまどひて、所々はげたるを、「これ、黒けれど、漆つきていと清げなり」と宣へれば、「をかし」と笑ひて、御鏡入れてみるに、こよなければ、「いで、あな見苦し。なかなか入れで持たせたまへれ。いとうたてげにはべり」と聞ゆれば、「さはれ、な言ひそ。賜はりぬ。げにいとようはべり」とて、使やりつ。少将、取り寄せて見たまひて、「いかでかかる古代の物を見出でたまひつらむ。置いたまふめるものは、さる姿にて、世になきものも、かしこしかし」と笑ひたまふ。明けぬれば出でたまひぬ。
鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?はい、あなた様です。――今も昔も、こういう内省しかないような人物がいたので、リフレクションみたいな概念が弄ばれるようになったに違いない。落窪の北の方のような人物は、鏡を持って行ってしまう。かわりに古ぼけた鏡をくれる。鏡を取り替えるということを思いつく我々の文化の方がしゃれているのだ。――しかし、そうとも言い切れまい。小林秀雄みたいに突然、神皇正統記を読んで鑑だ鑑だと言い始める人もいるからだ。果たして、文章の中のどこに、自分のすがたが映るものであろうか。
柿本真代氏のディズニー絵本の受容の研究に書いてあったが、ディズニー絵本を非教育的なものとみなすのは日米ともに60年代以降らしい。一方、日本のディズニーアニメの影響は、わたくしの教壇からの体感だと宮崎アニメのそれと重なっている気がする。しかし、ほんとのところはわからない。われわれは体感とか記憶を信用すべきではない。まだ鑑をみてびくりした方がましだ。
我々は鏡を見ると少しは今でもびっくりする。だから、鑑はむかしから案外真実を映すものと考えられたに違いない。それは、失われた過去を見出す如くである。たぶん、過去の改竄は我々が鑑の前で笑ったりするのと似ている。わたくしがむやみにニコニコしている人間を信用しないのはそのためである。コミュニケーション能力とかいうもののほとんどは、記憶力や勝手に自分の思ったことを結論だとおもいこまない能力とものすごく関係がありそうであって、――快活であることなんか、アイコンがかわいいみたいなのにちかい。
わたくしの記憶がないのは、幼稚園以前と小2~4ぐらいで、前者は常識的にわかるんだけど、後者はわからない。ほとんど覚えていない。とにかく面白いことがなかった雰囲気だけ覚えている。太宰の「人間失格」の最初のほうに、食欲というのが分からないという挿話が出てくるけど、これはすごく重要なことだと思う。わたしも異様に食欲がなくてその感覚が理解できず、お腹が空いてきたのは小学校5年ぐらいである。そこあたりから記憶がはっきりしている。葉蔵がなぜ人間を理解できないという認識に拘泥しているのかは結局分からないわけだが、それは食欲みたいなものの根拠がわからないようなものだ。よくわからんが、こういう感覚は甘やかされて育ったこととも関係あるかも知れない。
わたくし、たぶん幼稚園かそこらの頃、たびたびマジンガーZと一緒に寝てた気がするのだが、清原選手がずっとバットと一緒に寝てたという話をきいて思い出したのがそのことであった。わたくしは小学校はいる前に卒業してしまったが、自分の分身と別れた悲しみは大きいはずで、それがいつ来るかは人による。清原氏が経験したのは、わたくしの小学校前半期とおなじで、欠乏感ではなかろうかと思う。小学生の私は大したことはなかったが、40超えて人生を奪われる感じは想像つかない。おそらく、記憶があまりないのではないかと思う。
私の親は小学校の教員だったこともあってか、わたしにテレビまんがをやんわり禁じるやり方もうまかったと思われる。テレビまんがを忌避すると言うより、自分たちも絵を描いたり能をうなったりしてたから、わたしも、サブカルはたまたまいま一生懸命しない程度の選択肢でしかなかったような気がする。というか、小学校時代、私も部活やピアノの練習でそこそこ忙しかったような気がする。その都度はまり込む事柄にも忙しかったし。――いや、ほんとのこというと私は親の見識を読んでいたのだと思う。幼稚園時代、マジンガーZにはまり込んでなんか現実との境が怪しくなっていたし、小1でウルトラマンの劇中にはまりこんでいるわたくしをみてさすがに危機を覚えた両親はわたしをそういうものから少しずつ遠ざけた。そして、わたくしもその危機感を共有していたと思うのである。幼稚園も小学校も異様につまらなかったから少々おかしいなと、自分を疑っていたからである。
そういえば、母はわたくしの絵の能力に期待していた気がする。わたくしはあまり絵に関しては才能を自分に感じなかった。大学の時に美術部の人がわたくしが授業で描いた絵みて、美術に進めば良かったのにといっていたが、わたくしには全くぴんこなかった。そしてまったくおなじくピンとは来ていないのだが、好きだった音楽を続けることになったが、――結局、ピンと来た文学の方をやることになり、そういえば最近はそれもピンとこなくなっている。ピンとはなにか?
そういえば、わたくしの性格には非常に酷薄なところがあるけれども、これが学者になってしまったことと関係があるんじゃないかとは疑っている。キャリア選択みたいな観点で学者になると、こういうことが分からなくなる可能性はあると思う。

傘をほうほうと打てば、屎のいと多かる上にかがまり居る。また、うちはやりたる人、「強ひてこの傘をさし隠して顔を隠すは、なぞ」とて、行き過ぐるままに、大傘を引きかたぶけて、傘につきて屎の上にを居たる、火をうちふきて、見て、「指貫着たりける。身貧しき人の、思ふ女のがり行くにこそ」など、口々に言ひて、おはしぬれば、立ちて、「衛門の督のおはするなめり。われを嫌疑の者と思ひてや捕ふると思ひつるにこそ死にたりつれ。われ、足白き盗人とつけたりつるこそ、をかしかりつれ」など、ただ二人語らひて、笑ひたまふ。「あはれ、これより帰りなむ。屎つきにたり。いとくさくて、行きたらば、なかなかうとまれなむ」と宣へば、帯刀、笑ふ笑ふ、「かかる雨に、かくておはしましたらば、御志を思さむ人は、麝香の香にも嗅ぎなしたてまつりたまひてむ。殿はいと遠くなりぬ。ゆく先、いと近し。なほおはしましなむ」と言へば、かばかり志深きさまにており立ちて、いたづらにやなさむと思して、おはしぬ。門からうじてあけさせて、入りたまひぬ。
嫌疑をかけられおまけに糞の上に尻餅をついてしまった少将であるが、このあと餅を食べることになる。たぶん糞も麝香の匂いだったので大丈夫であったのであろう。喜劇は悲劇にも見え、その逆もある。そしてそれ以上にわれわれはその悲劇や喜劇をおもわずに現実の推移を遊ぶ。
『図書新聞』が存続の危機という噂であるが、悲劇的である。確かに何回かわたくしも執筆しているので、責任も感じる。だから、ゼミのたびに学生の斜め前にさりげなく置いてあるのだ、学生はなにかのアジビラだと思っているふしがあるが。。。
ひとの価値判断というのはアテにならないもので、わたくしなんかだと「~だったりする」という言い方に虫酸が走り、だいたいこの言い方をする奴には碌なやつがいないのだが、たぶんこれは間違っている判断だ。しかしその判断より前に、我々は人を非難する快感で遊ぶのである。
モンテーニュを読んでると、かれがどことなく大事なことを忘れたり失礼なことをしてしまっている人だったことが推察されるのだが――、見識を持って丁寧すぎる儀礼を避けるんだみたいな結論を附言し、いかにも宮仕えで苦労した人らしく思われる。ほんとはどんな判断を行う人物だったかはわからんが、丁寧すぎる儀礼にも寄りかからず、自分の性質にも寄りかからず、みずからの見識だけに頼るのがよいような状況があったのであろう。そこでは、様々な推移で遊ぶ連中がおり、しかしそれを理性で律するのも別の推移を生み出すだけだったからであろう。モンテーニュはまた、意地になって弱い砦でガンバル兵士を死刑にしたりする古来の習慣を紹介しているが、同時にその判断の難しさをいろいろ述べていた。我々の文化は、前者を逆説として面白がってしまう癖がある。落窪で起こっていることもそんなところである。

鶏の鳴く声すれば、男君、
「君がかくなきあかすだに悲しきにいとうらめしき鶏の声かな
いらへ、時々はしたまへ。御声聞かずは、いとど世づかぬ心ちすべし」と宣へば、からうじて、あるにもあらずいらふ。
人ごころ憂きには鶏にたぐへつつなくよりほかの声は聞かせじ
と言ふ声、いとらうたければ、少将の君、なほざりに思ひしを、まめやかに思ひたまふ。
なほざりに思っていたのに急に恋しちゃう少将殿もあれであるが、急に「あんたのこころが薄情だから私は鳥よ、鳥になぞらえて泣くしかないわけよ」とかいうてしまう姫も、窪んだところで雛みたいに泣いていた割には、突然大人の鳥になったものである。急にくるのが、この物語の特徴かとも思えてくるほどである。
不幸も幸福も急に来るからびっくりするのであるが、それでは歴史にならぬと言うので、みんないろいろと反省する。しかし結局はよく分からなくなってしまう。芥川龍之介は、誠実だったので、それなら徹底的に時間を止めてみてみようとしたわけである。そうしてみると、止まった時間のなかでは未来は「ぼんやりとした不安」にみえた。芥川はすでに死ぬつもりであった。しかし時間を止めてみると未来は「ぼんやりとした不安」だった。
芥川龍之介に限らず、ほんとは時間を止めるにはおよばず、だいたい未来は急にゴタゴタしたり何かが来たりすると我々の祖先たちは知っていた。落窪物語も源氏物語も平家物語もおそらくは、もう既に起こってしまったことをマンガ化して表現しているのかもしれない。現代でもそういうのはよくある。宮崎あおいがでていた「初恋」という映画は、三億事件事件を題材にしていて、わりとすきであった。事件の主犯は宮崎さん演ずる恋する女子高校生だったという話になっている。「恋と革命」である。――そういえば、米国では、ケネディ暗殺を、純情な少女が初恋のからみでやってしまったとかいう、良い意味でのまんが的お花畑的なフィクションてあるんだろうか?
芥川龍之介が「不安」と言ったのは、むろん危機への恐怖でもあった。芥川龍之介が死んだ頃、アメリカの大恐慌は目の前に迫っていた。わたくしになりにぼんやりした不安を感じてみたいとおもうが、やはり過去のおおざっぱなことしか目に入ってこない。米国を起点に?世の中が荒れてくると、また日本は独逸とかイタリアと組みかねない予感がある。わが極東の島国は案外過去との関係に於いてしぶとい。過去を想起するのはどこに飛んでいくのか分からない言霊を扱うことであって、あぶない、――というか、我々には過去は扱いかねるほど重くなりすぎている。「我が闘争」やナチスにふれるな的なやり方が西洋中心にあったが、そういえば、日本の社会の先生の無意識なのか、縄文土器とピラミッドに時間を割き、近代史にふれるな、というやり方を。。。している。我々は、原理的にはありえない「リフレクション(反省)」をしようみたいなやり方の欠点を我々は知っているとも言えるのではないだろうか。

村の人々は、又、氷の上へ出て「やつか」といふ漁猟をする。諏訪湖の底は浅くて藻草が多い。人々は、夏の土用中に、沢山の小石を舟に積んで行つて、この藻草へ投げ入れて置く。土用の日光に当てた石は、寒中の水にあつても、おのづから暖みが保たれると信ぜられてゐるのであつて、実際、凍氷の頃になると、魚族は多くこの積み石の間に潜むのである。それを捕へるのが「やつか」の漁法である。その積み石をも「やつか」といひ、「やつか」の魚を漁ることをも「やつか」と言ひ做らしてゐるのである。「やつか」の所在は、「やつか」を置いた漁人にあつて何時でも明瞭である。氷の上に立つて、湖水の四周から、嘗つて記憶に止め置いた四個の目標地点を求れば足るのである。二個づつ相対する地点を連れぬる二直線は、必ずこの「やつか」の上で交叉することを知つてゐるからである。
――島木赤彦「諏訪湖畔冬の生活」
諏訪湖では御神渡りが今年も難しそうであるが、人々が科学的根拠に頼って諏訪湖を眺めている時点で、神様がどこかににげた可能性あり

しかし、私は、あの雪の日以來、大空を壓して降りて來るあの固々たる雪の中の深い秩序が、何時の雪の日にも、私のこゝろによみがへつて來る。
そして、この大都會の人の世の上に降つてくる雪が、この上もない美しいものとなつて呉れたのである。掌の上でとける雪も、あの二万尺の上から、あの結晶をはこんでくることを思つて、今も、私は涙ぐむのである。
――中井正一「雪」
中井のような絶望をくぐった人なんかのほうが、雪を眺めてつい大都会の上方をみてしまうものなのかもしれない。押井守の映画にはそういう雪の場面がたくさんあった。ポーもヴァレリーも花田も小林も空をながめて唸っている。
対して、国策に随い中国や太平洋に乗り出した人々は何を見たのであろう。葉山嘉樹が満州行ったとき、太平洋に乗り出すのと満州にいくことは同じだ、地球は丸くみえる、みたいなことを言っている。
トラックは、地球上の最頂点をいつも走り続けた。
この無限の北満の曠野は、どこまで行っても、地平線が円く沈んでみて、一行の走るところが、いつでも最頂点であった。
おお、地球の円味よ。今こそ、われわれは地球の円味を、大地の上でこの眼で見ることが出来たのだ。
それは太平洋の真只中で、水平線に囲まれながら、地球の円味を感じるのと同じものであった。
曠野の微かな隆起は、太平洋の波のうねりであった。 洗面器を伏せたやうな幾つかの曠野のただ中の死火山は、太平洋上の珊瑚礁であった。
曠野の中に乳白色に凍結した川は、太平洋における黒潮であった。 または汽船の航跡であった。
――葉山嘉樹「入植記」
戦争で移動する人々のみたのは、地球球体説の証明であり、日本ではない土地から日本を見る、いわば地動説ならぬ日本動説みたいな感覚である。自分が動いているからそれらは発見されたのではないかと思うが、だから一方で、日本の相対化ではなく、「地球上の最頂点」みたいな陶酔をも生み出すのだ。そういえば、満州で育った安部公房の「S・カルマ氏の犯罪」にもこの「最頂点」みたいな認識が唱えられている部分があった気がする。安部はそこで育ったから逆に、ユートピアの不可能性にすぐにたどり着いた訳であるが。。
「君たちはどう生きるか」も、地動説の話から始まり、天才児コペル君の誕生を語っていた。吉野源三郎だって、ほんとは、移動したいタイプなのではないか。むしろ、戦後もとことんとどまったことを考えると、彼は移動する国策へ抵抗しすぎただけなのかも知れない。

君の見たまへば、消えぬべく火ともしたり。几帳、屏風ことになければ、よく見ゆ。向ひゐたるは、あこきなめりと見ゆる、容体、かしらつき、をかしげにて、白き衣、上につややかなるかい練の衵着たり。添ひ臥したる人あり。君なるべし。白き衣の萎えたると見ゆる着て、かい練の張綿なるべし、腰よりしもに引きかけて、側みてあれば、顔は見えず。かしらつき、髪のかかりば、いとをかしげなりと見るほどに、火消えぬ。くちをしと思ほしけれど、つひにはと思しなす。「あな暗のわざや。人ありと言ひつるを、はや往ね」と言ふ声も、いといみじくあてはかなり。「人に会ひにまかりぬるうちに、御前にさぶらはむ。大方に人なければ、恐ろしくおはしまさむものぞ」と言へば、「なほ、はや。恐ろしさは目なれたれば」と言ふ。
落窪物語で冒頭から継母が「お前は顔が悪いから裁縫しとけ」みたいな科白を繰り出すことは有名だが、実際こういうことを嫁や子どもに言うやつはおり、一見こういうタイプは孤立した馬鹿のように見えるが、同じようなタイプの不良どもとつるんでいる。我々は悪人がそもそもつるんでいるということをつい忘れがちである。そういうつるんでいる群れの顔も見えないが、いまだに当の姫の顔もみえない。彼女の顔は、継母から悪いと言われている。窪地にいるみすぼらしいかっこをさせられた顔のない姫、これは一種の竹のなかにいる姫と同じく秘められた見えない何かである。これは、考えてみると、天皇そのものである。
この三日間、夫婦でなんとなく体調を崩したところを見ると、やっぱり寒いのはふたりともだめになっている。天皇も長い歴史の中で、暖を取る費用もなくしたことがあったようだが、京都も案外寒いところである。のっぺりしている割に平地ではない。そもそも京都自体が窪んでいる場所である。木曽人としては、窪みも何も山に挟まれているよりもましであるきがするのであるが、木曽殿はたぶん、京都人の持つ、微妙な高低差ののっぺりした感覚が分からなかったのだ。最期、田んぼに馬が足をつっこんで討たれるところは、かれにとっても窪みが難点だったことを示している気がする。
木曽人としては、氷点下十度ぐらいは普通だったはずだが、もはやそうなったら冬眠するかもしれない。

八月朔日ごろなるべし、君ひとり臥して寝も寝られぬままに、「母君、われを迎へたまへ。いとわびし」と言ひつつ、
われにつゆあはれをかけば立ちかへりともにを消えよ憂き離れなむ
心慰めに、いとかひなし。
お迎えにクルのは親であり死者である。しかしポイントはともに死んでくれることである。そうなることで憂鬱から離れられる。ということは、死者でなくても「ともに」いてくれれば良いことになりそうである。本当に死にたがっている人はこういう感じではないかもしれない。姫の絶望の中には簡単に解決されそうな要素が混じっている。「ともに」は、死んだ親への感情であるとともに、感情の二重性をも示唆してしまっているかも知れない。
例えば、宴会などに、この「ともに」の重要性は現在可能なのであろうか。そもそも飲み会という言い方が良くない。てめえが飲んで楽しくするのが目的みたいな感じがする。ハラスメントの原因もそれであろう。元来こういう行事は全員が他人のためにするものであって、その目的自体ははそれ自体がきついんで、引き替えに美味いもんを摂取できるぐらいのものだ。時間をかけて、宴会にでてるやつのナルシシズムがひどくなっていたんだとおもうが、それで、なんでこんなのに付き合わなきゃならんのだ、と思う人間が増えた時点でもう存続が危うかった。いまや、気の利く奴が気の利かない奴の摂待をする場になりがちである。
だから、こういう場合もかかる場への全否定が行われがちであるが、その判断自体は非常に陳腐なことである。絶望しているつもりでその実顕れているのは、みずからの思考の形式性である。絶望的なもののなかに「ともに」の要素が入っているのに気がつかない認識の問題だ。そういえば、――例えば、加速主義だか更地から第二の青春とか言いたげなタイプは、なにゆえ崩壊過程がその実形成過程でもあって、崩壊すると見せかけて何かの形成が行われるかもしれない、というか、必ず行われているという面を見ないのか分からない。トランプや安倍によって崩壊だけが起こるわけがないではないか。

かかるほどに、蔵人の少将の御方なる小帯刀とて、いとされたる者、このあこきに文通はして、年経て、いみじう思ひて住む。かたみに隔てなく物語しけるついでに、この若君の御事を語りて、北の方の御心のあやしうて、あはれにて住ませたてまつりたまふこと、さるは、御心ばへ、御かたちのおはしますやうなど語る。うち泣きつつ、「いかで思ふやうならむ人に盗ませたてまつらむ」と、明け暮れ「あたらもの」と言ひ思ふ。
落窪の姫がいかに素晴らしいか、すなわち必ず望通りのひとに盗ませたてまつる(連れ出させてさしあげたい)というあこぎであるが、――そういえば、木曽殿も、京都に闖入した後、「官軍悉く敗績し、法皇を取り奉り了んぬ。義仲の士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉り了んぬ」みたいな闘いをしたはずである。義仲は院を自分のようなプロレタリアートの世界に連れ出した。院やその他諸々の方々が激怒したことは言うまでもなし。
思うに、貴族的なものをやたら連れだしゃいいというものではない。
このまえ同僚の先生にいわれたが、わたくしは卒業論文中間発表会や口頭試問とかで機関銃のように楽しそうにしゃべるということである。内省するまでもなく、その通りである。わたくしはいろいろなことが楽しくてしょうがないのでやってるのである。めんどうなのはなんとか委員長とかだけである。わたくしは好事家以上に享楽的な貴族的文人である。
そういうわたくしからみれば、教育学や文学研究の「科学化」はさしあたり副作用が大きいことが、学生の卒業論文や様々な論文をみてて思われる。研究の手続きをとることに集中するあまり、そもそも対象をじっくりながめて観察することで生じる率直で精確な主観が削ぎ落とされ、結果、先行研究との「つまらない差異」だけがでてくることになりかねない。豊かで精確な主観には最初から未来が先取りされているから、手続きは超えるべき山脈ではない。つまりけっこう楽しい作業になるのだが、しかし、はじめから科学をやろうとするとそうでなくなるのだ。
いわゆるリテラシー能力みたいなものもそうで、真偽を検討する手続きに集中しようとすると逆にそのプロセスで生じた間違いを信じこみ、その問題=既成の枠組みを疑えなくなる。大事なのは、最初にどう見えたか、を検証でぶちこわすことではなく、最初の見え方の質なのである。一概に言えないことだけど、研究を始める前にその質に精確な楽しさがない場合は、何をやっても仕方がない。しかしこの楽しさは、対象に対するわかりやすさとか親しみやすさとかとは関係がない。初等教育などで、勉強への親しみやすさとかわかりやすさみたいなのを、勉強のモチベーションにすることによって、学生たちは妙な道に迷い込んでいる。
教育上の論文審査(口頭試問など)で必要なのは、ほんとは学生が何をいいたいのか読解することである。書いてあること、書かれていないことをそのまま受け取るのは、本質的に文章を読む行為として本来おかしい。過剰に学問化するとこういうこともおかしくなってしまう。学部の論文だからそのぐらいの読解をすべきだというわけではない。学問が人間の本質へ向かってのものではなく瑕疵の修正だとおもってしまうタイプの人間は、PDCAサイクルとかを平気で信じこむ頭の悪い社会に影響を受けすぎている。まったく冗談であるが、マルクス主義の「修正主義」とかがタチが悪かったのはそういうことなのである。
我々は、もはや放っておけば成り立つであろう以上のような常識を失った。しかし、教養主義の没落とか人文学の没落とか、そういう時代だか環境だかで変容しつづける群れの話をしても仕方がない。確かに、多くいないとレベルが下がったり本が出なくなったりというのはあるけど、ほんとにやる気のある感覚のよい楽しい方はその程度でやるべき事をやめたりはしない。

つくづくと暇のあるままに物縫ふことを習ひければ、いとをかしげにひねり逢ひたまひければ、「いとよかめり。ことなるかほかたちなき人は、ものまめやかに習ひたるぞよき」とて、二人の婿の装束、いささかなる隙なく、かきあひ縫はせたまへば、しばしこそ物いそがしかりしか、夜も寝もねず縫はす。いささかおそき時は、「かばかりのことをだにものうげにしたまふは。何を役にせむとならむ」と、責めたまへば、うち嘆きて、「いかでなほ消えうせぬるわざもがな」と嘆く。
三の君に御裳着せたてまつりたまひて、いたはりたまふこと限りなし。落窪の君、まして暇なく苦しきことまさる。若くめでたき人は、多くかやうのまめわざする人や少なかりけむ、あなづりやすくて、いとわびしければ、うち泣きて縫ふままに、
世の中にいかであらじと思へどもかなはぬものは憂き身なりけり
顔がよくないひとは裁縫でもしてろと言われるひとが顔がよくなかったためしがなく、世の中実に理不尽に出来ている。「うち泣きて縫うままに」と言われては読者はもうこの人を助けようと思う。で、この次の場面で直ぐさま彼女を助ける女があらわれる。しかも彼女は「髪長くをかしげ」であって、いい姿である。で、彼女とすぐ結婚してしまう奴がいて、おそらくイケメソである。そろそろ読者は自らを省みて、
世の中にいかであらじと思へどもかなはぬものは憂き身なりけり
と思うであろう。あとは鬱憤を晴らすしかないわけだ。このあとの物語が継子いじめへの復讐譚であるにしては案外ドタバタであるのはよく知られている。人生、不幸が興奮を求める。
しかし、我々は不幸を知識で武装し、脳が一瞬幸福であると錯覚する。
授業でも話したんだが、どうしたらいいのか情報をいれながら勉強するとなぜか成長がゆっくりになってゆくことが多いのは、経験的に感じられる人間的常識なので、AIでむしろ仕事の進捗は遅れる場合も多いのも別に驚くべき事でない。我々が成長できるのは脳みそ含めた体の運動によってなんじゃないかなと思うのだ。
だいたいAIでXのプロフィールの要約なんかをやらせると、いっけん的確だが、――カントは理性を信じ平和を願いました――みたいな、科白がでてくる。客観というのはしばしばこういう愚につかない科白のことを言う。カントの書物をみるように、人間の主観は歪み不必要に長くなったりするが故に的確である。作文教育なんかで、我々のつくる文章の歪みやへたくそさの輝きに注目せず、その客観的=非人間的なお人形みたいな作文を愛でている限りAI登場以前からAIに負けているのである。
だいたい、勝ち負けみたいな観点で言うと、AIにいろいろな意味でまけたとて、いままでも様々な受験生に負けてきた私の出来の悪さに変化があるわけではない。我々は負け続けなければならぬ。それなのに、原爆やスマホをつくり、不自然に歪み長々と喜んでいる。教育でも何でもそうだが、われわれは道具の本来の使い方でない使い方に喜びを覚える。便利なものが出来たワーイという感情ですら、既にその喜びである疑いがある。
自分だけがエビデンスであるが、わたくしは九九を覚えるのが遅くクラスで最後から二番目ぐらいだった気がする。ウルトラマンの怪獣とか国語の教科書は丸暗記してたのに。しかし高校生になったら数学が一時期、一番点数を稼いでいた。国語の成績がほんとによくなったのは大学からではなかろうか。こういう現象から、我々の能力のAIと違った何らかの意味が見出せると思う。問題は英語で、いつも点数がそこそこ安定して変動がなかった。というわけでよくなりもしなかった。学級崩壊している教室での学習からはじまったのもよくなかったかもしれん。もはや、毎日英語の練習している細の姿を見て他者性を感じる。そういえば、高校の頃数学がおもしろかったのは、なんか急に散文的になった気がしたからだ。数学だって人によっては国語化することがある。

一月の末で、おとといはここでもかなりの雪が降った。きょうは朝から陰って剣のように尖った北風がひゅうひゅうと吹く。土地に馴れている堀部君は毛皮の帽子を眉深にかぶって、あつい外套の襟に顔をうずめて、十分に防寒の支度を整えていたのであるが、それでも総身の血が凍るように冷えて来た。おまけに途中で日が暮れかかって、灰のような細かい雪が突然に吹きおろして来たので、堀部君はいよいよ遣り切れなくなった。たずねる先は渾河と奉天との丁度まん中で、その土地でも有名な劉という資産家の宅であるが、そこまではまだ十七清里ほどあると聞かされて、堀部君はがっかりした。
日は暮れかかる、雪は降って来る。これから満洲の田舎路を日本の里数で約三里も歩かせられては堪まらないと思ったので、堀部君は途中で供のシナ人に相談した。
「これから劉の家までは大変だ。どこかそこらに泊めてもらうことは出来まいか。」
――岡本綺堂「雪女」
今日のクライマックスは、演習の発表者の学生が「アドルム三〇〇錠」と言ったとき。田中英光ってまだストレイドックスに出てきてねえらしい。出てきたときは、コミュニスト的アドルム連射とか「あなたはほんとに僕のことが好きだったのでしょうか」としか言わない幽霊を口から出す最強のモンスターであろう。
しかし闘争心だの憎悪だのというものは、ある意味で人間の日常を、すがすがしくまた生き生きとさせるものですな。
――梅崎春生「ボロ家の春秋」
闘争心は梅崎よりも田中英光である。
今日は批評史の最後の授業で、内田・宮台・東・千葉を「批評の終わり」4人衆として賛美した。誠にありがとうございました(完)
彼らの特徴だって闘争心である。闘争心に邪心はない。むかしから、バンドをやったのは女の子にもてるため、教養を求めたのは女の子にもてるため、とかいう理由は本人が半分以上嘘ついている。だいたい闘争心溢れる御仁たちが照れてるに決まってるじゃないか。音楽や文章が好きだからやってただけでしょうが。ほんとにモテたいやつは、そんな回りくどいことしないでナンパに勤しむ。むかし、学生運動のセクトの旗を振りたがる奴はモテたいだけだった、みたいな言説があったけど、これもある程度はウソである。たしかに、オルグで女の子を使うのはあったであろうが。
わたくしはシラノの恋みたいな敗北を嫌う。むしろ恋文の代筆をしているうちに、その相手の男を寝取ってしまい、相手が本気になると積極的に腎虚に追い込む好色一代女のほうを好む。恋愛だって闘争心の一種である。

オリヴィエは、精神上同民族たるべき人々から知られていないので、彼らを当てにすることができなかった。そして敵軍の掌中に陥ってるのを知った。多くは彼の思想に敵意をもってる文学者や、その命を奉じてる批評家などばかりだった。
彼らとの最初の接触に、彼は血を絞らるる思いをした。老ブルックナーは、新聞雑誌の意地悪さにひどく苦しめられて、もう自作の一編をも演奏させたがらなかったが、それと同じくらいにオリヴィエは、批難にたいして敏感だった。彼は、昔の同僚たる大学の職員らからさえも、支持されなかった。彼らはその職務のおかげで、フランスの精神的伝統にたいするある程度の知覚をなおもっていて、オリヴィエを理解し得るはずだった。しかしそういうりっぱな人々も一般に、規律に撓められ、自分の仕事に心を奪われ、仕甲斐のない職業のためにたいていは多少とも苛辣になっていて、オリヴィエが自分らと異なったことをやりたがるのを許し得なかった。善良な官吏として彼らは、才能の優越が階級の優越と調和するときにしか、才能の優越を認めたがらない傾向をもっていた。
――ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」(豊島与志雄訳)
ときどき、戦前のブルックナーの第八番の録音を聞いていると、十歳頃、雑音七割ぐらいのFMから流れてきたこの曲の記憶がよみがえる。木造家屋、氷点下十度の木曽の夜にて、すでにわたくし、昼夜逆転の気味があった。昼間の小学生としての人生が逆に夢のようにおぼつかなくなった。80年代に入る頃である。
そういえば最近朝日新聞で連載されている柄谷行人の回想録で、彼の十代はなんか夢の中みたいで現実感がなかったみたいなこといってたから、――細にその話したら、「過去だからじゃない?」と言ってた。
柄谷にとっても私にとっても、80年代こそが夢のように儚かったはずだ。柄谷の場合、もともと夢のようなかんじを生きる人であるところに、儚い感じの時代相がぴったりきた。むかし歌人の永井陽子が『〔同時代〕としての女性歌人』とかなんとかいう本の座談会で、「結社というのはもう死語で」、といっていたが、結局死語にはならなかった。一般的にそういう例が多いのが我が国であるが、何かが行き過ぎる気がしていた80年代の方が特殊だったのである。
柄谷氏は、儚い時間に流れにたいし、歴史の見方を事象の起源の特定という方法で変えようとしたひとりである。これは、歴史的な見方と言うより、批評的であり、現在の時間を確かなものにする方法である。柿本真代さんの研究で知ったけど、巖谷小波の世代は二宮金次郎を知らなかったりするんだが、芥川龍之介の生になると偉人扱いになっている。わたくしも小学校に銅像があったから偉人だと思っていた。この前小学校にいったらまだあったが、――こんな見方によって時間を確かにしようとする習性が、我々以降のアカデミシャンに広まった。
最近出た『一九六八年と宗教』を原付の全力スピードみたいなかんじで読了したが、こういう書物も上の習性によって読めるからだ。これに対して、学生の卒論一つ読むのに何日もかかるのは、彼らがその習性を持っていないこともあるが、彼らは良くもわるくも、作品を読んでいるプロセスにあり、時間が普通に存在しているからだ。(学生の書く紋切り型みたいなところにこそ、何かが勝手に言い換えられてしまったものがあって、大いにヒントになることがある。対して、大きく独創的にみえるものに大きいウソが混じっている。)
平安朝文学の作品というのも、なにか時間の狂いを感じさせる。わたくし、「落窪物語」というのがずっと気になりつづけて三〇年であり、竹取宇津保にくらべて神秘性がないとむかし古典文学の教科書で習ったが、――なんか神秘とは呼べない神秘性みたいなものはある感触がある。「継子虐め譚」が普遍的だからではないのだ、なんというかこの作品は、躁鬱的な時間だと思うのである。
我々の時間の不思議に比べれば、既製品をこわすみたいなクリシェの時間を生きる者達は、まだ赤ん坊と言ったところだ。ルールを破壊し再創造するのではないのだ、彼らのやってることは物理的な破壊に近いのである。文学やっている人でも、自由に対して束縛とか強制みたいな図式でものを考えている人がいっぱいるけれども、自分がその都度何を壊したがっているのかの内省はいつの世も必要だと言わざるをえない。学校にそこそこなじんで勉強してきてしまったタイプが、生権力?やらなにやらを論じているのを見ると、――君が権力なんだがな、と言いたくなる。内省でも鏡でも何でもいいのでそういうのが必要だ。実際、勉強するというのは自分の前に鏡を置かない行為であり、時間が止まっている。受験勉強なんかは、やった→成果が出たという因果関係を優先して時間を止める行為なのである。失敗した者だけが、時間が動き出すのをみる。そのなかで、権力が何なのかがようやくみえるのだ。そこで死ねば時間がまたとまるけれども、それは我々の生が許さない。
とはいえ、わたくしも二〇代の頃は、時よ止まれ的な、破壊や死を望んでいたところがある。以前、わたしに、全共闘の時代に大学生やってたらどこかに突入して死んでるか、転向して懊悩して餓死してみたいな感じだったですよね、と言っていた若い研究者がいた。適当なこというやつだとおもったが、なんとなく最近はあたってるようなきがしてきた。確かに、――気質というのはあまりかわるものじゃないのだ。個性とはお互いに認め合うことですめばよいが、実際には本人にとって桎梏と化してゆくことが屡々で、我々は個性によって全員それぞれ狂っている。最近のテレビ業界の顛末を見ていても、潜在的に闘われているのは、「人柄対コンプラ」みたいなものであるが、そのことを熟考するいい機会になると思いきや、くるのは破滅だったりするのは、結局、我々が時間を恐れ破壊を好んでいるからだ。
狂いは、仕事の様相に顕れる。私の場合、依頼主の意向にあまりぴんときていない場合、だいたいの仕事というのは失敗する。逆に失敗しないひとはなにかはじめから失敗しないことそのものをめざしているのかもしれず、これがいろいろなものの進捗を遅らせているとしかおもえないが、わたくしは自分の性のこと考えるとそうとも言い切れないとは思っている。私の場合は、自発的に行った仕事とどこか強いられた仕事では大きな出来に違いがありどうしたもんかなと思う。おそらく、強いられたことに拠る憤懣がさまざまな憎悪を呼び、それが仕事の余分なところまでに影響して事態を遅らしているのである。そもそものその自発性だって、なんらかの反発によって起こっている要素はあるんだが、あまりに敵と直面しているような場合は自発的にならない。競争は敵との距離が近すぎて、憎悪によって自分の脚を自分で引っ張るきがする。おそらく、すぐ近くに競争相手がすわっているような、受験などの競争に、私がいまだに慣れていないからかもしれない。

歯舞諸島のユリ島付近でB29がソ連戦闘機に撃墜される事件が起きたのは十月七日のことだが、私が札幌について二日目の十七日には、歯舞諸島は日本領土であるという米国務省の対ソ抗議覚書が発表された。根室沖が「危険地帯」の発火点になるための外交辞令はととのった形である。二十日私は旭川にいた。その前の日だったろうか、米軍ジェット機が旭川付近のどこかしらで墜落して、それを捜索するための小型機が旧練兵場から一日中飛びまわっているのを私は見た。学芸大学の裏手のアイヌ部落のまんなかに立ってその飛行機を見ているときに、旭川には水野成夫氏の国策パルプの工場があるが、ストライキなどはけっしておこらないしくみになっているときいたとたんに私はおかしさがこみあげてきた。というのも国策パルプ、苫小牧製紙、東洋高圧、帝国製麻、日本製鋼、北海道電力といった優良株を、北海道に工場があるという理由で、絶対に買わない男がいるという話をとたんに思い浮べたからである。その男の名前もむろん私は聞いているのだが、旧財閥筋のさる大会社のれっきとした重役なのである。こんな重役が一人でも日本にいるかぎり水野氏はまだまだのしあがるだろう。ところでストライキは、そのとき全道、否全国にわたって炭労、電産二労組がゼネストに入っていたのである。炭労は十三、四日にわたる四十八時間ストについで、十七日から大手筋十六社二十四万人が一せいに無期限ストに突入した。
――服部之総「望郷」
水野成夫は、フジサンケイグループをつくった男として知られているが、そして、これも有名な話だが、れっきとしたフランス文学の実力ある飜訳者で元共産党員、赤旗初代編集長、で逮捕された後は獄中転向のありかたを方向付けた男、――というかんじで、弁証法というか塞翁が馬というか、裏切り者といおうか、ものすごい男であった。しかも、こういう男は案外一人ではない。けっこう戦後の復興期にはこのタイプのいろんな奴が活躍しているのであった。というか、戦後の人間たちは、戦前からの転向組という意味で、ほとんどが水野的である。あと、文藝春秋をつくった男・菊池寛も、言うまでもなく転向組と言ってよい。やつらがいなければ、アカハタもフジサンケイも文春もないわけで、結局諸悪の根源は文学なのではっ。そして、彼らとおおかたの日本人は似ている、ということは諸悪の根源は日本人なのではないだろうか(棒読み)
そういえば、昨日のニュースで、東京の普連土学園の校長先生がでていたが、これも由緒ある学校で、校歌は室生犀星の作である。犀星なんかは幼児的すぎて、裏切らない。
――昔書いたことなんだが、共産党の人たちに限らず、戦後の日本人が少々頑張り屋だったのは、転向者、戦前からの裏切り者だったからではなかろうか。裏切り者というのはまっすぐに頑張るのである。対して、転向や裏切りから出発しない人は、いずれ自分や周りから転向し裏切るまで堕落をやめない。そういえば、坂口安吾の堕落が何処に向かっているのか不明な「気合い」みたいにみえるのも、案外転向のモメントがないからではなかろうか。
わたくしも、音楽から転向して、音楽を裏切っている自覚のあるときだけ、活き活きしていた。転向後の道を自明としたときに堕落がはじまった。
今の日本も、過去の弁証法の煮崩れした瓦礫で出来ている。ベンヤミンならここから美的な星座でも思いつくであろうが、わたくしには少なくともまったく何も浮かんでこない。
星座でなく、造られているのは瓦礫に躓かないための教則本である。さんざ言われていることであるが、ミスをなくそうと思ってかように細かく指示を出すようなことを続けていると、常識で判断せえとかその場で何とかしろみたいなことが分からない、すべてを細かい指示で組織したがるおかしな人たちが台頭して威張るようになる。このことは職場の秩序を大いに乱す。これは、指示を文字通りに取ってしまう少数のひとの台頭と裏腹ではあるが、より厄介なことであって、――たいがいその細かさはその対象が非常に恣意的だからである。研究がよりシステマティックになってある問題の範疇のなかの差異化みたいになってゆくとそういう細かさだけがある研究者が台頭してゆくことになるのだが、――より大学の校務上の困難さが増している気がする。気恥ずかしいけど、問題が人間的でないことを批判する指導はこれから必要である。
あるひとは、繰り上がり当選みたいなことが続きゃそうなるよ、と言っていたが。。。