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聞ゆれば、少将、いと悲しく思ひまさりて、いといたう泣かるれば、直衣の袖を顔に押しあてて居たまへれば、あこき、いみじと思ふ。しばしためらひて、「なほ今一たび聞えよ。あが君や、さらにえ聞えぬものになむ。あふことのかたくなりぬと聞く宵はあさを待つべき心こそせねかうは思ひ聞えじ」宣へば、また参る。道にて、心にもあらず物の鳴りければ、北の方、ふと驚きて、「この部屋の方に物の足音のするは、なぞ」と言へば、あこき泣く泣く、「疾くまかりなむ」と申せば、女君、「ここにも、みじかしと人の心をうたがひしわが心こそまづは消えけれ」と宣ふも、え聞あへず。「しかじか、驚きて宣ふめれば、よろづもえ承らずなりぬ」と言へば、少将、ただ今もはひ入りて、北の方を打ち殺さばやと思ふ。
窪んだところからの脱出、ついで幽閉からの救出劇とくれば、もはやこれは地上の人間の物語としか思えない。当たり前なのではない。世の中、神が神を殺す世界においては、腐乱した屍体であっても神は洞窟から逃げようとする神を追いかけるし、剣の先っぽにあぐらをかいたりするのであるが、人間が人間を殺す世界は、白が黒にひっくり返るオセロの世界に過ぎない。復讐の鬼と化した少将が「北の方を打ち殺さばや」と思った時点で話は本質的には終了しているのである。
しかし、世の中、そんなふうに終了はしない。最近のリアルポリティクスにしちゃ大げさな展開も、「トランプは王様だ」みたいな人間界的なお話ではない。露西亜とウクライナの戦争を止めようとしているトランプの狙いはおそらくNATOの解体である。すなわち、アメリカも問題だが、そういうアメリカに見捨てられたNATOがそのままでいられるかといえばそうではないだろうが、百年前の体たらくは嫌だから、そうだ中国とヨーロッパが合体だ、朝青龍あたりが大統領でいいのではないだろうか――こんな展開の方がリアルだと思っていた方が良いのである。
共産主義という妖怪はまさに妖怪であって、ソ連あたりが「人間の理想郷」でござるみたいな様だったときにはそこから離脱してどこかに行っており、ソ連が崩壊したときにNATOを再組織化すべく暗躍したに違いない。人間の話としてみれば、――ソ連があったおかげで美味い汁を吸ってた連中が――共産主義者にもリベラルにも軍事産業にいて、ほんと世界中にいたわけだ。そういえば、最近、教育界にもいて、ソ連が居なくなったら「一方的な講義」をそこに代入して溜飲を下げている。つまり、これらは実体のない「反共」であったという話にすぎないが、それを動かしている側から見れば、「妖怪」の為業である。たぶん、この「妖怪」が死ぬのは、原子爆弾のような、上の少将の「ころさばや」の極めて人間的な物象によってである。その規模が「神」を思わせるかもしれないが、あの爆発は人間の姿である。そして、妖怪や神は、爆弾同士の均衡とやらで原子爆弾が作動しなくなると、我々をコントロールし始めたのである。それが戦後の歴史である。
我が国の学問の対立に置き換えてみれば、実学は原子爆弾である。どうみても金と広い意味での殺意が絡んでいるのが「実学」である。そもそもこれが大学での学問を僭称せずに撤退すれば、国も大学にそんなに金かけなくてすむ。それが人間的行為だからいずれ単なる死に向かうのが実学である。
役に立たない学問を排除するのはケシカランという意見はわかるし、上のような意味でも実際だいぶケシカランのだが、学問の世界には「本質」的なことに絶対に向かえないタイプの本質的逃避型みたいな学者もいて、事態をややこしくさせることは確かである。人間的感情、この場合は忌避の感情だが、これが絡みすぎている。これはザ実学ではないが、実学の一種である。しかしこういう人たちにたいして、その「本質」を生活や社会に置換して攻撃するのは卑怯だし、意味がない。
例えば、自分のパートナー?が横暴だからといって怒りのあまりそれを「家父長制」とか「ジェンダー何とか」のせいにしきってしまうのは「実学」なのである。その人が人としてアレな部分の帰趨を考えること、その人がいずれ死んだ後の歴史を怨恨を超えて考えることが妖怪や神として考えることである。左翼や右翼のことではなく、生き残りをかけた改革を煽っていた――怒りのあまり、ここ二十年ぐらい、危機を煽ってばかりいた人間はほんとに危機が来たとき「それみたことか」と言うかもしれないが、彼らのやってきたことはたいがい何事も危機に脊髄反射するレベルに多くの人を人間化してしまうことだったと思う。狼が来ないので村人から金を盗んでその金で狼を連れてきたみたいな話になる。すなわち寓話にしかならない。