goo blog サービス終了のお知らせ 

Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「図書6月号」

2024年06月07日 21時24分17秒 | 読書

 今月号で読んだのは、次の11編。

・本も生きている        笠井瑠美子

・虫供養            養老 孟司

・伊勢神宮造替の謎       ジョルダン・サンド
現在の神宮の状態や、技を尽くした造替をみれば、変化することなく伝統に忠実に進められてきたと創造しやすい。この見方の背後には、様式の真正性という現代的な周年が潜んでいる。「伝統」はなからず紙も完全な複製を狙う保守的なものとは限らない。伊勢こそ、永井歴史の中で変動の波にさらされ、工法の即興と革新もあった。大工たちは先例に倣いながらも、造替のたびに、その時代の技術と状況に応じた解決策を編み出した。
往古の伊勢神宮が結局どのような建築だったかは謎のままと言わざるを得ない。伊勢神宮の建築は、朝廷の資金問題や遷宮の中断など、様々な異変だけでなく、各時代の信仰、嗜好、希望にも影響されながら、絶えず変化してきた・・。
 予想されているとはいえ、資料的にきちんと踏まえた論稿は信頼できると感じた。

・継がれる想い         栖来ひかり

・ウクライナの歌手と「人魚姫」  岩切正一郎

・母といっちゃん        出久根 育

・路上より(下)         柳  広司
「(イスラエル大使館前の抗議行動について)「効果があるからやる、ないからやらない等というのは、資本主義の肥溜めに鼻の下までどっぷり漬かった者の屁理屈だ。効果があろうがなかろうが、やるべきと思えばやれば良い。そうでなければ楽しく生きたとは言えない」(堺利彦) 資本主義勃興以前、人の行動基準は効果の有無ではなく真善美だった。正しいからやる。良いからやる。美しいからやる。そんな生きかたも悪くない
 前提がない断定は、反対の意見を持つものにも力を与えてしまうし、アジテーションに堕してしまうので、あまり一般化したり声高に言ってしまうのは避けたい。一応思いは伝わるので、取り上げておこう。

・娑婆、嘘が相場やし  方言と予言   前田 恭二

・ガガの我・各々の我          川端知嘉子

・「この国の自由」 海洋国家の成立    前沢 浩子
 シェークスピアの作品をイングランドのその時代の社会のあり様から解説されるのは読み応えのある論稿である。今回は「ヴェニスの商人」が実は当時のロンドンという都市の置かれた状況であるとの、登場人物に即した解説である。次回以降にも期待。

・失われた「エジプト旅行記」      西尾 哲夫


読了「日本の裸体芸術」

2024年06月07日 20時02分38秒 | 読書

    

 「日本の裸体芸術 刺青からヌードへ」(宮下規久朗、ちくま学芸文庫)を読み終わった。

文明国からの賓客が刺青を入れたがるのは、外国人の目を気にして刺青を禁じた明治政府にとっては皮肉な現象であった。浮世絵の芸術性への評価も、欧米の評価が逆輸入されてから始まったことと似ている。第二次世界大戦後、軽犯罪法から刺青禁止令が除外されたのは、GHQの高官が強く主張したから・・。刺青は欧米清の視線を気にして禁止され、欧米人の指示によって解禁された。近代の刺青の運命は日本の対外事情によって翻弄された。」(第5章 第2節)

刺青という芸術は生きた人体のはりのある肌と赤い鮮血を通してのみ存在する。年をとるにつれて退色するし、太ったり痩せたりすると図像が変化する。禁じられたり、生身の人間に描かれた刺青の美しさが失われたとき、刺青という芸術も廃れる運命になった。」(第5章 第2節)

もともと日本には、人格や精神と切り離した身体という発想がなく、それをいっしょにした「身」という概念しかなかった。西洋のように肉体を自家や精神と切り離した物質のようにみなす思想がなく、肉体と精神が不可分の関係にあったから・・。刺青こそ、日本の身体観に即した芸術、「身」そのものを芸術に昇華させた・・。西洋のヌード芸術が、人間性を除去した肉体美を称揚したものであったのに対し、肉体美にさしても貴を置かない日本人はそれになじめず・・、本来は切り離せない精神と身体とを無理に分離してしまう心身二元論に基づく肉体という思想ではなかったろうか。」(第5章 第3節)

刺青を入れた裸体は、単なる裸体ではなく、衣を着た状態に近い。衣服も刺青もアクセサリーもおなじような装身の術であり、衣の代表である。刺青が顔や手ではなく、衣に隠れる部分に施されること、刺青の色が着物と同じく濃い藍色をしていること、人前で裸になって労働する人々がもっぱら刺青をしている。政治政府が裸体を信じて無理に衣を着用させたことから、刺青は衣の代用という元の意味を失ってしまった・・。刺青を入れた裸体は、単なる裸体ではなく、凝視に耐えうる強度を獲得している。刺青と衣服が近い関係にある・・。」(第5章 第3節)

わが国はヌードを芸術として消化吸収したというより、芸術という制度を移入する過程でヌードをはびこらせてしまったに過ぎない。・・・芸術として制作しても展示が許されなかった戦前の画家たちは・・一部の例外をのぞいて芸術として自己主張できるようなヌード芸術を確立できなかった。・・戦後の美術家たちは、ヌードというジャンルを所与のものとして、日本の文脈や風土に憂慮するといった葛藤や困難もなく制作しつづけた。その結果、戦後の公募展の会場や公共空間には、創意工夫の見られぬヌードの油彩画や彫刻が氾濫することになった。」(終章)


 「刺青を入れた裸体は、単なる裸体ではなく、衣を着た状態に近い」というのはとても魅力的な指摘、卓見であると感じている。
 また街にあふれる女性の裸体彫刻に私はあまり意味を感じないので、その原因についての指摘は頷ける。
 しかし「戦後の美術家たちは、ヌードというジャンルを所与のものとして、日本の文脈や風土に憂慮するといった葛藤や困難もなく制作しつづけた。」という指摘には留保したい。「葛藤」のなかった「芸術家」の作品が街にあふれたのであり、そうではない「芸術家」の存在、「芸術」という制度に繰り込まれなかった自覚的な「芸術家」の存在も俎上に載せる必要も感じる。次の論稿に期待したい。


明日からの読書

2024年06月06日 23時03分55秒 | 読書

 夕食後からは、「図書6月号」の文章をいくつか読み、退職者会のホームページに記事を3つほど掲載する作業を実施。
 体には「休養」となったが、思考力はまだ休養になっていない気分。頭の中が霞んでしまってはこまるので、明日から少しずつ読書を本格化したい。「日本の裸体芸術」の最後の部分の引用や感想をアップする作業をしたいもの。また「図書6月号」も読み終えてしまいたい。

 「日本の裸体芸術」のあとは「春画のからくり」(田中優子、ちくま文庫)を選んだ。「刺青」への言及を覗いて内容は似通っており、著者の違い、あるいは同一の指摘など読み比べて探ってみたい。

 明日は横浜市立市民病院である。天気は良いようだ。


何年かぶりに「神奈川大学評論」

2024年06月06日 17時15分42秒 | 読書

 朝から体がだるく、出かけるのが躊躇われていた。たまたま予定が入っていないので、「休養日」と決めた。
 午前中は再来週に予定されている退職者会の幹事会に提出するニュース発行のためのタイムスケジュールと記事内容などの資料を作成。A4のペーパー1枚はすぐにできた。



 午後はボーッとテレビを見て過ごした。あまり体を動かさないのも嫌なので、神奈川大学の生協まで歩いて書籍部で「神奈川大学評論第104号」(発行は昨年11月)を購入。この「評論」は年3回刊行。
 表紙の作品は日高安典《裸婦》(無言館蔵)。特集は「表現」、窪島誠一郎・斎藤美奈子両氏の対談が掲載されている。
 帰りに途中のドラッグストアで頼まれた食料品を購入。往復で5000歩ほど。

 明日の午前中は市民病院の予約が入っている。


読書予定と退職者会ニュースの作成日程

2024年06月05日 21時37分45秒 | 読書

 ようやく帰宅。友人と軽く飲むつもりであったが、それなりに飲んでしまった。誘惑に弱いのが悲しい。
 会議の合間に「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)を読み終えることが出来た。新しいことを知ったこともあるし、不満なところもあるが、末尾の刺青の論稿については、惹かれるものが多くあった。引用や感想はまた後日にしたい。
 そして次に何を読むか、まだ決めていない。いろいろと選択するのもまた楽しいものである。

 明日以降、そろそろ退職者会ニュースの7月号のスケジュールや記事の内容について案を考えていかないといけない。この1か月の行動の振返りをしながら、記事の取捨選択、メイン記事の選定など少し慌ただしく、決めていきたい。

 


「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)  5

2024年05月31日 20時58分22秒 | 読書

 髭剃り(シェーバー)を購入後、喫茶店で一服。妻は食料品などの買い物へ。私はしばらく喫茶店で読書。

   

 「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)の第4章「裸体への視線 自然な裸体から性的身体へ」を読了。第2節以降、駆け足で「現在抵抗なく受け入れられているヌードが定着するまでの近代日本のヌード芸術家たちの困難な歩みを振り返って」いる。
 他にも気になった部分もあるが、とりあえず2個所、私なりに同意できた個所から。

裸体モデルや、現実の日本人モデルをどのように造形化するかという問題は、戦後、日本人の体形がすっかり欧米化し、・・・極端なデフォルメも前衛思想も必要なくなったのだが、裸体を描くときに西洋人風に修正していまう癖は完全には払拭できていないように見える。戦後、ヌードの舞台は絵画や彫刻よりも写真に移ったため、絵画や彫刻での試みはもはや時代遅れのようになって注目されなくなった・・。

(荒木経惟は)、女性の肉体だけを撮るのではなく、モデルの生活臭や人生の哀感を漂わせたり、・・女性の人間性をともに写しているように見える。・・写真家との個人的な関係が見えて部外者に追いやられるためであり、モデルの女性の〈個〉が見えてしまって感情移入ができないからであろう。精神や人格の分離した肉体ではなく、日本的な心身一体の「身」の表象となっている。

 


「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)  4

2024年05月29日 20時59分16秒 | 読書

   

 本日までに「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)の第3章「裸体芸術の辿った困難な道」を読み終わり、第4章「裸体への視線」の第1節「見えない裸体」まで目をとおした。

ミシェル・フーコーは、性について語る人はつねに権力による性の抑圧について語りたがる。傾向があることを指摘し、そうではなく、なぜ性が否定され、いかにして罪と結びついてきたのか、という本質的な問題について考えなければならないと述べている。日本の裸体芸術が困難な茨の道を歩んだのは、権力の乱用のせいばかりではない。文化や社会、あるいは美術のあり方の中に裸体画と相容れない問題があったのであり、こうした内在的な問題を考えることこそが重要である・・。」(第3章 末尾)

日本には裸体美という概念はなく、これをわざわざ見るということは体的な関心と結びついていたのである。三田村蔦魚によれば、裸体を鑑賞することがなかったわけではなく、それは種に「いかがわしい好奇心から」であった。風呂屋の混浴はたびたび禁止されながら、ずっと行われており、男湯と女の湯の区別のあるところでも、その境界は簡単なものでその気になればいくらだも覗くことができた。しかし、それは「みっともない」行為であり、「・・・卑劣な行為と見做していた」という。・・男女混浴には不文律のおきてがあり、それを犯したものは社会的に無言の精細を受けねばならなかったという。大半の日本人にとっては、浴槽の裸体はわざわざ見るものではなかった。あえて覗き見るという行為は、禁じられているがゆえにエロティシズムを誘発するものであった。」(第4章)

裸体を凝視する(西洋人などの)野卑な視線に対しては、裸体は隠さなければならないものとなっていく。少なくとも外国人の前では避けたほうがよいものとして、人々の意識に刻み込まれた。外国人のまなざしによって、日本人も裸となることは羞恥心を伴うようになり、自然であった裸体が性的身体に変容してしまった。」(第4章)

 第4章からの引用部分は、大方私も同意できる。もう少し、具体例や西洋との比較例などを使った記述も欲しいがそれは無いものねだりというものだろう。
 しかし以前にも記載したが、「裸体」が江戸市中でも広範囲に見られたといえども、職人などの庶民レベルであり、裕福な人々やそれなりの武士等の身分のいわゆる「上層部」の人々の意識との落差についても検証が必要な気がする。
 以下の指摘はとても魅力のある論であるけれども、日本だけの特質と断定してしまうわけにはいかない。

近代以前の世界においては、今ほど視覚が優位にはなく、聴覚、触覚、嗅覚なども非情に重要な役割を果たしていた。電灯のない家屋は昼でも薄暗く、顔も人体もはっきり見えることは少なかったに違いない。こうした幽暗な空間の中では、官能はいまよりもずっと触覚によって刺激されたであろう。浮世絵の春画に見られる身体が不自然であり、ながら許容されたのも、当時の人々の性愛のイメージが視覚的なものだけでなく、触覚的な要素や妄想に大きく依存していたからではなかろうか。・・・いずれにせよ、生活風景の中に裸体画あふれながら、それをしっかり「見る」という体験は近代以前にほとんどなかった。」(第4章)

 「暗さ」は日本だけではない。西洋も世界中どこでも同じであった。少なくとも1879年のエジソンの実用的な白熱電灯の普及開始までは。白熱ガス灯も1886年以降である。日本で言えば「開国以降」、それも明治10年代以降である。蝋燭や油脂による灯りから電気・ガスに切り替わったのは西洋も日本もほぼ同時期ということになる。
 文化の基層となる古代や中世や近世も、共通に「触覚的な要素や妄想に大きく依存して」いたのになぜ、違う状況になっているのだろうか。解明はなかなか困難であるようだ。

 

 


「老いの深み」(黒井千次)から 2

2024年05月26日 10時24分33秒 | 読書

 「老いの深み」の中で、「八十代の朝と九十代の朝」で次のように記されている。
 八十代の頃は朝、ベッドに腰かけていると、「子供の頃の空気がよみがえり、今はこの世から遠く去った両親や祖母や兄のことなどが自然に思い出されて来る。
 しかし九十代になって「寝起きの際に出会うのは、そんな透明な甘美で優しい時間ではない。・・今、何時だろうという問いが自分の中に起き上がる。
 この違いを著者は、「八十代の老いが持つ詩的世界は歳月とともに次第に変化し、いつか九十代の散文が抱える世界へと変化していくのではないだろうか。
 と記している。
 〈老い〉は「時間の量的表現ではなく、人が生きつづける姿勢そのものの質的表現でもあることを忘れてはなるまい。老人は生きている。美しい沼も、乾いた数字も踏みしめて――。〈老い〉は変化し、成長する。

 この記述に惹かれた。「詩と散文とを単純に対立」的に捉えたり、〈老い〉を「経年変化のシルシとしてけとめようとするか」という思考にならないのがなかなか「しぶとい」。

 私は逆ではないか、と考えていた。現役時代をひきづっていた60代前半は、「今日は何曜日で、今は何時か、今日の予定は・・・」と思っていた。そして次第にその思いから遠ざかり、70代前半の今は「本日読む本は何にしようか」と思う。これから先私は、「身内などの家族のことが毎朝思い浮かべたり、若い頃に読んだ詩や小説などのことを思い浮かべるのではないか」と思いこんでいた。
 〈老い〉とともに、どんな変化が寝起きのときにあるのか、考えてみる参考になる。


「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)  3

2024年05月24日 20時20分50秒 | 読書

 いつもの喫茶店に行ったものの、本日も短時間の読書。「日本の裸体芸術」の第2章を読み終わった。
 19日に引用する予定個所が抜けていた。

裸体でいることが多いという習慣や、日本人の精神と肉体を二分して考えない身体観が底流にあったため、あえて裸体を取り上げて鑑賞するという視点や発想がなかった。裸体をことさらに造形芸術の主題にしようなどとしなかったのは当然であろう。人物を描写するときには、文字においても絵画においても、体形やプロポーションなどよりも衣装の美が強調されるのが常であった。そもそも日本の造形伝統には、肉体を顕示するような表現がなかった。ほとんどの場合、人物は衣をつけた姿で表されたが、このほうが自然である。私たちがある人物を想定する場合、その人物の裸体を思い浮かべるのではなく、衣装をまとった姿を想起するのが普通である。むしろ裸体人物を飽くことなく表現してきた西洋のほうが特殊である。」(第1章 第2節「江戸の淫靡な裸体表現」)

 「裸体でいることが多い」「精神と肉体を二分して考えない身体観が底流」というのは魅力はありつつも、言い切ってしまうのは保留したくなる。あくまでも「裸体をことさらに造形芸術の主題にしようなどとしなかった」ことの根拠や背景を私は知りたい。
 古代のギリシャ文明、中世・近世のヨーロッパの庶民・下層民の生活様式との比較ももう少し具体的な究明が欲しいのは欲張りだろうか。また支配層の生活様式と意識の比較も必要なのだろう。
 ここはあくまでも私のこだわりなので、引き続き私なりのアプローチは続けたい。


「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)  2

2024年05月23日 21時21分33秒 | 読書

   

 本日まで読んだのは、「日本の裸体芸術 刺青からヌードへ」の第2章「幕末に花開く裸体芸術」の第1節「菊地容斎の歴史画」、第2節「生人形に見る究極のリアリズム」、および第3節「過渡期の折衷的な作品群」の途中まで。

春画では身体が喪失しており、頭や性器が分節化されていて全体を形づくっていないのは、日本では性愛の観念が、視覚的なイメージだけでなく、触覚的で観念的なものに基づいていたためと見ることもできよう。養老孟司氏は、春画における身体の歪曲は、成功時の人間の脳内における生殖器の大きさを考慮して描いたものであるためという。春画は性行為のイメージや女性の秘部の美しさをしめしたものというよりは、触覚や妄想を含めた欲望の世界を開示したものであったといえるだろう。」(第1章「ヌードと裸体」第2節「江戸の淫靡な裸体表現」)

(丸山応挙の《人物正写図巻》について)ヌードではなく、理想化をほどこさないありのままの裸体にほかならなかった。裸体が美とかけはなれたものであり、あえて鑑賞すべきものではないと再認識してくれる。日本で裸体が表現されるときには、ほとんどの場合こうした淫靡さや後ろ暗さがつきまとっていたのである。」(同上)

黒田清輝以降の洋画家たちは西洋的なヌードの概念を学んだのだが、・・・日本で裸体が登場するときの伝統的な主題は無視され、顧みられることはなかった。・・生人形から豊かなヌード芸術への自然は発展の道は閉ざされた・・。日本のヌード芸術には、生人形の記憶は何らの痕跡もとどめていない。裸体に理想美を見出す西洋のヌード観とは最初から相容れなかったのである。」(第2章「幕末に花開く裸体芸術」、第2節「生人形に見る究極のリアリズム」)」

「裸体に理想美を見出す西洋のヌード観とは最初から相容れなかったのである。」ここがどのように展開されるのか、私のもっとも解明されてほしいところである。どのようなアプローチが続くのだろうか。


本日より「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)

2024年05月19日 22時02分52秒 | 読書

   

 本日から読み始めた本は「日本の裸体芸術 刺青からヌードへ」(宮下規久朗、ちくま学芸文庫)。
 本日は「序章 ヌード大国・日本を問い直す」と、第1章「ヌードと裸体 二つの異なる美の基準」の第1節「理想美を求める西洋ヌード」までを読み終え、第2節「江戸の淫靡な裸体表現」を少々読み進めた。

幕末に来日した西洋人は一様に、日本人が裸でいることに強い印象を受けた。ある程度文明が進んでいる国であるにもかかわらず、裸族の闊歩する野蛮な国のような風俗に衝撃を受けた。・・・一方イメージの世界では「ヌード」は巷にあふれ、ヌード写真は雑誌や写真集でたやすく見ることが出来る。・・・街角にも雑誌にもフードの彫刻が目に入っても不自然に思わず、・・日本ほどヌード彫刻が屋外に氾濫している国はないといわれている。」(序章)

風俗としての裸を捨て去って、美術やイメージの世界では裸を受け入れてきたのが日本近代の歩みであった。明治以前の日本では、これとはまったく逆の現象が見られたわけである。・・・裸体が美術のテーマになると云うこと自体が、肉体を人格や精神と切り離した物質としてみなす伝統の西洋のみにみられるきわめて特殊な考え方であって、両者が融合した「身」という概念しかなかった日本では、違和感を覚えるべきものである。」(序章)

(日本では)裸体になることへの抵抗が欧米や同じ東アジアの中国に比べて少なかった。高音多湿であるから裸になるという単純なものではないようだ。インドネシアは日本よりよほど暑いが、日本人のような裸体の習慣はないという。朝鮮半島でも、戦前の日本人の裸体や裸足は顰蹙を買ったという。日本における裸体の習俗は気候のせいであるというより、もっと本質的な伝統といってよいものであろう。」(第1章第2節)

 横浜開港の頃の古い写真などを目にすると、多くの男の職人が褌(ふんどし)ひとつで写っている。とくに駕籠を担ぐ人、行商の物売り、大工、飛脚などが目に付く。皆とても日焼けして黒い。女性はそのような恰好はないが、乳飲み子に乳を含ませる図などは目にする。また風呂屋の中は暗いとはいえ混浴であるといわれていた。
 それは昭和の30年代、40年代(1960年代末)まで、多くの温泉地でオープンな混浴が当然であったことは、写真集などでも明らかであった。
 ただし「江戸時代の女性は乳房よりも、足の脛を人にチラ見せことが、セックスアピールであったらしい」と教わったことがある。
 これらがなぜなのか、昔から私なりに疑問に思っていた。この問題意識は私も共有できる。西洋画の裸体表現の根拠と、日本の裸体表現の比較検討という問題設定にも惹かれた。

 


読了「魔女狩りのヨーロッパ史」

2024年05月16日 22時09分33秒 | 読書

 昨日から本日にかけて「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一、岩波新書)の第6章「女ならざる“魔女”」、第7章「「狂乱」はなぜ生じたのか」、第8章「魔女狩りの終焉」、おわりに「魔女狩りの根源」、あとがき、を読了。

社会的地位もある男性が〝魔女〟にされる台のケースは社会全体の優良な秩序を壊し家長の役目を果たせない、情けない男と見なされた場合。第二の状況は魔女迫害が異端追及と密接に結びつけられたとき。第三の状況は魔女狩りが制御のきかないものになって連鎖反応式に密告・告発がつづく場合。皆が集団ヒステリー状態に陥り、男であれ高い身分であれ、やみくもに知人の名前を共犯者として挙げていった結果である。」(第6章)

魔女狩りが横行する背景としては、何らかの災いがまん延して人々に不安心理が広がる状況が考えられる。第一に気候不順。ヨーロッパで魔女狩りが荒れ狂った1560~1630年は小氷期と呼ばれる。1660~1670年代にも再来。」(第7章)
疫病は気候悪化ほど関連性は明らかではない。標的を定めない激甚なる疫病を、魔女の害悪魔術とするのは無理があり、むしろ罪深い人類への゜神の怒り」「神罰」と機会されたのだろう。」(第7章)
戦争との関連はどうだろうか。戦争には明確な「敵」があり、そこに注力しているときに、別の「敵」=魔女を裁いている余裕はないのだろう。「魔女狩りは平和なときに起きる」という言明は正しい。」(第7章)

魔女迫害は、国王(君主)の連力強化と関連していた。中央集権の絶対主義体制構築のためのイデオロギーを国家が確立して、従順な臣民を創出することが不可欠だった。魔女狩りの主な熱源のひとつはイデオロギー形成に協力する司法官を中心とする世俗エリートと聖職者のエリートたちが国王・領邦君主をいただき、厳格なキリスト教道徳の実践を特徴とする政治的共同体である神的国家を創造しようと決意したところにあった。」(第7章)

魔女狩りの開始・蔓延を宗教改革と結びつける考え方がある。しかし魔女狩りはルターのはるか前から始まっていた。逆に魔女狩りをもっぱらカトリック的現象と片づけることもできない。ドイツの魔女裁判を見ると、宗派による根本的な違いは見出せない。魔女裁判はカトリックとプロテスタント双方に、相手を呪う手段を与えた。互いに悪魔の手先とまで呼び、相手の存在・勃興をサタンの業と見ることもあった。しかし双方が相手を直接迫害するために魔女裁判を利用したわけではない。」(第7章)

ヨーロッパ諸国において世俗化が進み、政治から文化に至るまで生活全般へのキリスト教の規範力が弱まると、スコラ学的思考システムが懐疑の目でみられ、神の秩序とは別のものとして、宇宙と自然を科学的に説明しようという機運が高まってきた。17~18世紀にかけて、合理主義的な考え方が一般の人々にまで徐々に広まっていった。悪魔学的な思想も、不合理なものと見なされるようになった。」(第8章)

ヨーロッパやキリスト教という限定を外した人類学的な魔女観念と、そうした考えを糧にした者たちの組織作りは、まさに現代風のグローバルな魔女現象であろう。」(第8章)

現代でもなお頻発している、アフリカやインドの魔女狩り(リンチ殺人)は、魔女狩りの人類学的な基層を推測させる。人類はどうしても対処・解決する手段がない異常な困難事象に遭遇したときに、絶望するかわりに魔術的儀式に頼って不安を解消してきたい、今でもしているのならば、姿形は変われど、魔女狩りに類した蛮行は今後も世界じゅうで起こり得るだろう。魔女狩り終息後の近現代においてもユダヤ人迫害や黒人差別を繰り返してきたヨーロッパは、そうした人類共通の暗い人間性・社会性の基層に、ヨーロッパ一流の形式合理主義を組み合わせており、いっそうたちが悪い。理性的・合理主義的でないから魔女狩りが起きたのではなく、理性が陥りやすい罠に深々とはまったからこそ起きたのだ。」(おわりに)

 第7章以降、論理の飛躍などが目に付くが、とりあえず気づいた箇所を引用してみた。第8章「魔女狩りの終焉」に「合理主義」を根拠にしているのは、無理な上滑りを感じる。「おわりに」の提起とも相容れない。
 現代に日々生起する「魔女狩り」のような事象の究明にはこの著書の展開からは無理がありそうな気がした。
 人間の集団が困難に直面し、相互不信に陥り、相手集団の抹殺へ、そればかりか集団内部での抹殺へと至る過程の解明に少し期待を掛けていた。期待は空振りに終わった。私がもっと主体的に考えなくてはいけないことなのだが・・・。


「魔女狩りのヨーロッパ史」 第5章

2024年05月14日 22時12分24秒 | 読書

 本日読んだのは「魔女狩りのヨーロッパ史」の第5章「サバトとは何か」。サバト(悪魔を中心とする魔女集会)がどのように「裁判」をとおして述べられているか、どのような形体であったかを明らかにしている章である。

あべこべのミサが行われるが、それはカトリック教会の典礼・儀式を嘲笑するパロディとなっている。
魔女の知識が一般に広まるにはいくつものルートがあり、そのひとつとして出版文化がある。魔女文学をもとにした図像が、知識普及に貢献した。混じ観連テーマにまず先鞭をつけたのは、南ドイツとスイスの画家・版画家であった。すなわちアルブレヒト・デューラー、・・・、ついで16世紀のネーデルラントにも同テーマが広がったが、ピーテル・ブリューゲル(父)・・などがいた。
画家たちが盛んに描いた魔女とサバト、必ずしも彼らが魔女の妖術やサバトを心底信じていたことを意味しまい。彼らは「想像力」の問題に並々ならぬ興味を覚えて、それを画家としていかに操るかを試すのに恰好のチャンスだと信じて、画題としての魔女・サバトに食指が動いたのではないかだろうか。

 デューラーやブリューゲルの作品を見るとき、よくわからない作品が多数ある。この「悪魔」「魔女」という視点から、作品を見たいと思う。
 


「魔女狩りのヨーロッパ史」第4章

2024年05月11日 18時45分30秒 | 読書

   

 本日は横浜駅近くのいつもの喫茶店で「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一、岩波文庫)の第4章「魔女を作り上げた人々」を読み終わった。

魔女狩りの最盛期は16世紀後半から17世紀半ばである。主要な悪魔学書が出版されるのも16世紀からである。正確には近世ないし近代諸島の出来事なのだ。しかしそれで中世が免責されるわけではない。なぜなら中世においても、魔女を仕立て上げる心的装置が着々とつくられていたからである。13世紀後半から14世紀前半にかけて、魔女狩りを正当化するイデオロギー的な基盤を作った神学的・教会法的な趨勢があったとされている。

ヨーロッパに限らず、ほとんど世界じゅうの前近代社会において、日常の困難や危機回避のために呪術にすがる慣行は遍く広がっていた。

初期中世に悪魔の幻惑・妄想=異教的迷信と位置づけられて反転して、現実に起きている悪行と見なされる必要があった。悪魔が神から独立した悪行能力を手に入れ、人間界において物理的・身体的に現存して行動するとの考えが登場したからこそ、魔女と悪魔の物理的・肉体的交渉が可能になった。同時に魔女が「自由意志」で悪魔と契約を結ぶ主体となり、悪の力の行使者としての責任を負い裁かれねばならない、という考え方への転換もあった。

悪魔学者の著作中に描かれる組織化された構造物、サタンと属僚たちの階梯によって秩序立てられた「悪の王国」のヴィジョンが、集権的なキリスト教共同体や国家の実現を図る聖俗権力の伸長に力を貸すものとなっている。

 大筋では了解しつつも、まだどこか飲み込めないところがある。それがまだ言葉にならない。

 


「魔女狩りのヨーロッパ史」読書再開

2024年05月10日 22時15分26秒 | 読書

   

 風邪をこじらせてしまい、読書の気力が無くなりかけていたがようやく読みかけの「魔女狩りのヨーロッパ史」の読書を再開した。

 桜木町から横浜駅に到着し、休憩がてら入った喫茶店で目をとおした。第2章「告発・裁判・処刑のプロセス」まではすでに読み終わっていた。本日は第3章「ヴォージュ山地のある村で」を読み終わった。
 この章は具体的に「魔女」として処刑された事例の紹介。なかなか無残な例なので読み進むのが少し苦痛なこともあったが、とりあえず読了。

根強い噂・悪評から裁判が始まるのは、前章で触れたように、ごく普通のことだった。だが、こうした魔女とその妖術の噂の広まり自体が、社会の分断・機能障害を表している上に、森に囲まれ孤立した山岳地帯のように不十分な農地しかなく、加えて自然環境の悪化と経済条件の変化に見舞われて生活が苦しくなった場所では、隣人への疑心暗鬼はいよいよ深く浸透していった。そこに司法権力が介入することで、社会の機能障害はますます激化し、裁判が進むにつれて、その抑圧システムが恐怖と不安に震える人々の精神に異変を起こさせ、共同体の団結統合はガタガタと崩れていった。
裁判は隣人どうしの不和・憎悪、暴力と復讐への欲求を養分にしながら進められるが、それを裁判によって昇華させることなく、むしろ奨励し煽りたて増幅させて、自分たちのコントロール下に具体的な形を与えようとしたのである。