夕食後に読書を試みた。「系外惑星と太陽系」(井田茂、岩波新書)を読了。読書の意欲が回復しているか心配したけれども、意外とスムーズに読み進んだ。
「研究の先端では「地球中心主義」は崩れ去り、「第二の地球探し」というようなフレーズではハビタブル惑星の研究はカバーできなくなっている。・・・「第二の地球発見!」なとという見出しに違和感を感じ、「地球に似ていなければ研究対象、興味の大正として意味がないのか?」「地球中心主義にこだわることで、全体像が見えなくなってしまい、地球の位置づけもみえなくなるのではないか?」などと考えてしまう。・・・実際の研究の現場では「地球中心主義」は崩れ去っているのだあるが、専門の研究者の議論であっても「私の視点」が購入し、それが混乱を招くこともある・・・。」(第5章「系外ハビタプル惑星」)
「ハビタブル条件を、惑星の質量・軌道、水・炭素・窒素の供給にまで条件を捨象してしまうと、太陽系に似た惑星系である必要も、地球に似た惑星系である必要も、地球に似た惑星である必要もななり、さらには惑星である必要もなくなる。」(終章「惑星から見た、銀河から生命へ」)
「地球生命は、単一の遺伝暗号、決まった20種類のアミノ酸を使う一系統の生命である。この地球生命というたった一つの礼だけである。だが、系外惑星は、液体の水(海)を持つものでも、その海の携帯や他の大気・気候やプレート・テクトニクス、磁場、中心星紫外線・X線などの表層環境には大きな多様性があるであろう。ハビタブル・ムーンのように惑星でない者も、表面ではなく、地下に海を持つものもあるであろう。」(終章)
人はどうしても「地球」のシステムや環境にとらわれて、広い視野を見失う。政治の世界も「日本」という枠組こだわって「世界」を見てしまう。私学的になっているとしても「世界」性の視点の確保というのは難しいことであろう。
まして「地球」という枠組を超えるのは厳しい。木星や土星の衛生にハビタブルな条件が見つかったとしても、地球型生命ばかりに気を取られてしまう。
地動説から天動説への転換が、またも求められる時代に突入しているということか。
今年「図書」を除く初めての単行本の読了である。少しエンジンをかけて読書時間を確保したい。