朝から冷たい雨が降り続いている。出かける気力はなくなり、先日手に入れた「図書3月号」を読み終えた。一応全編に目を通した。
・環境と自己 養老孟司
「都市化を言い換えれば意識化であり、私の表現では脳化である。・・・環境に「取り巻かれるほうの私たち」、自己の問題が暗黙のうちに、観念的に拡大してきた。個の尊重とか、個性を伸ばせとかいう減少。その「自己」は外部環境と同じく強く意識化され、意識の中の自分こそが自分だといわば最小限に縮小した。・・・明治維新、文明開化、第二次世界大戦と敗戦は日本人の自画像を大きく書き換えた。その変化は進行中で、終わってはいない。」
・プーシキン「オネーギン」とロシア貴族の家族 鹿島 茂
冒頭に次の文章が引用されていた。55年前初めて読んでよく理解できなかったが、何とか理解できるようになりたいものだともがいていた頃のことを今でも鮮明に覚えている。引用の引用である。
「すべての〈性〉的な行為が〈対なる幻想〉を見出したとき、はじめて人間は〈性〉としての人間という範疇をもつようになった。〈対なる幻想〉が生み出されたことは、人間の〈性〉を、社会の共同性と個人性のはざまに投げ出す作用をおよぼした。このために人間は〈性〉としては男か女であるのに、夫婦とか、親子とか、兄弟姉妹とか、親族とか呼ばれる系列のなかにおかれることになった。いいかえれば〈家族〉が生み出されたのである。〈家族〉は時代によってどんな形態上の変化をこうむり、地域や種族でどんな異なった関係におかれても、人間の〈対なる幻想〉にもとづく関係だという点では共通している。」(吉森隆明、「共同幻想論」)
・アンリ・ルソーの輪郭線 川端知嘉子
こちらもまた引用の引用。どこで読んで記憶に残したのかは覚えていない。しかし強く印象に残っている。
「人間にはバクーニンがいう「自由への本能」があり、まっとうな社会とは、個人が持つ自由への希求を最大限に保証する社会であるというものである。この想定から、人間の自由に対する制限は必ず充分な正当化を伴わなければならず、正当化がない限りあらゆる種類の権威、権力、階層・上下関係、力による支配、その人間の自由を制限するすべてのものに反対するという方針が導き出される。」(ノーム・チョムスキー「我々はどのような生き物なのか」)
次の文章はあまりに有名。私がいつも頭の中心に据えている文章のひとつである。
「人は弱いから群れるのではない。群れるから弱くなるのだ」(寺山修司)