≪平和記念館とインドネシアの歴史≫
バリ島の第一の都市「デンバサール」市内観光の日、最初に行ったところが「平和記念館」だった。
高さが45mもある石造りの記念館で、ここにはオランダの植民地だった時代の生活などがジオラマで展示されているらしい。
私達はそれを取り巻く周囲の広大な緑地公園を歩いて記念館の正面が見える所に行き、写真を撮っただけで戻った。
記念館に行く途中には、造園業者の園地が沢山あり、色々な熱帯の植物が植えられている静かな地域が続いた。
果物などを売る露店が出ていたので、バスから撮影した。
小学校もあって、子ども達が教室の外に出ていた。白いシャツに茶色のスカートという制服を着ていた。
現地ガイドによる歴史についての説明はほとんど無かったので、ガイドブックやネットでインドネシアの歴史を調べた。
それによると、ジャワ島中部の「サギラン村」から1936年にオランダ人の古生物学者が発見した化石が、猿人と現代の霊長類ヒト科への進化の途中という事が判明した。この「ジャワ原人」は、100万年程前に直立歩行し、ジャワ島に生存していたらしい。
紀元前5世紀位からインドネシアにはマレー半島やベトナム、ミャンマー、カンボジャ、中国の沿岸部から、多くの人々が渡って来た。その結果、現在のインドネシアは多民族国家で、多数の言語と文化が民族の数ほどあるという。
紀元前2500~1500年には中国西南部から移住して来た民族によって水稲耕作が行われていたらしい。
また打楽器「ガムラン」はベトナム北部が起源だし、様々な伝統的な手工芸も多方面から来た移住者達が伝えたとされる。
紀元前後には、「香辛料」を求めに来たインドやペルシャとの交易も盛んになる。その中で仏教国だったインドネシアに「ヒンズー教」が伝えられ広まって行った。
8世紀頃、仏教を信仰する王国が「ジャワ島中部の北岸」に栄え、「ボロブドール遺跡」を建造した。
一方で「ジャワ島中部の南岸」に栄えた王国はヒンズー教を信仰していて、「ブランバナン遺跡」を建造したと言われている。その後、「ヒンズー教」の中心地はバリ島に移っていった。
香辛料を求めに訪れていたヨーロッパ諸国の中で、オランダが1602年、ジャカルタのコタに「東インド会社」を築き、少しずつ植民地を広げて行った。そしてポルトガル領だったティモール島東部以外を第二次世界大戦時の日本軍進攻までには植民地にしてしまっていた。
この間、オランダはプランテーション経営をして人々の搾取を強めた。
1908年、医学生が中心となった「民族一体運動」が起きた。
1942年には日本軍が進攻して、オランダの統治は破綻した。
日本は「緩和政策」を取り、最終的には独立させるという方針を決め、民族主義運動で投獄されていたスカルノらを解放。迫害されて来たイスラム教の活動も解禁し、インドネシア語の他に、オランダ語に変わって日本語を教育に取り入れた。
1945年、独立準備委員会を発足させたが、日本が敗戦してしまう。
その後再び植民地化を計ろうとしたオランダとの間で「独立戦争」が起きた。これには2000人の元日本軍人も加わったという。
1947年に初代スカルノ大統領が独立宣言文を読み上げた。再度植民地化を画策したオランダは世界的な非難を受けて諦め、1949年12月のハーグ円卓会議にて「インドネシア連邦共和国」として独立が認められた。