3日目の朝は、ホテルから約1時間バスに乗って、全州(チョンジュ)にある「内蔵山(ネジャンサン)国立公園」に向った。
駐車場でバスを降り、先ず紅葉のトンネルになっている素敵な遊歩道を5~6分歩いて園内に入ると、「内蔵寺」の色鮮やかな山門があった。①②
① ②
ここは全体の広さが全羅北道と全羅南道にまたがる大きい公園になっていて、少し歩いたところから無料でこのシーズンだけという紅葉見物専用のバスとトロッコ風の連結バスが走っていた。
乗場は順番を待つ人で溢れていた。③
私たちのほとんどは、途中まで行くその連結トロッコバスに往復乗り、通路の両側を埋める途切れる事がない紅葉の絶景をバスの上から堪能した。
バスの終点は広場になっていたが、そこの紅葉も実に素晴らしかった。④
③ ④
(昨日、私は韓国女性の服の色について書いたが、③の写真を見て欲しい。
私達日本人の場合は、歴史的に見れば、平安貴族や上級武家の女性たちはあでやかな色使いを好んだ、というか、権力を持っている男の目を引く形や色使いだった。
しかし、普通の庶民や農民は、長い間、一生を通して絹などを身に着けることもなく、木綿や麻のごく少ない仕事着で暮らした。
明治時代以降、庶民もハレの日は絹織物を着るようになったが、色や柄、袖の長さ、帯の結び方などに年齢や婚姻をしているかどうかによるしきたりが厳しくあった。
結婚した女性は、目立たない地味な色の和服を着るのが一般的で、この習慣は第2次大戦後一般に普及した洋服にも影響したと思われる。
一方、日本人の色彩感覚は、四季折々に変化する自然に影響されていて、英語ならグリーンと一言で表す色も、日本語なら草色、もえぎ色、深緑色、鶯色、オリーブ色など微妙に違う緑色が多数存在するのである。
だから私たちは、一般的に周囲の自然からかけ離れた色の服装は敬遠して来たのではないだろうか。どんなにあでやかな色や柄のハレの日の和服も、そこに描かれているのは花鳥風月なのである。
戦後、年を取るほど肌の色艶が衰えるため、できるだけ綺麗な色を身に付ける方が良いという欧米の色彩感覚が入って来た。しかし今回、私たちと同じ黄色人種である韓国人の熟年女性を見ていて、赤はともかく、やはりピンク色はかえって違和感を増し、似合わないと感じたのは私だけだっただろうか。
結論として私は、時と場所と目的に適えばどんな服でも許される現代、自分に似合う色柄や形、組み合わせを探すことが一番大事だと思っている。
少しくどくなってしまった)
バスを降りてさらに奥に進む通路を行くと、「白羊寺(ペギャンサ)」の山門に着いた。
そこをくぐってからまた紅葉の山道をしばらく歩くと、一番奥に「白羊寺」があった。
ガイドブックによると、ここは新緑が美しい場所なのだそうだ。
寺の広場から見えた遠くの山の景色は、中国雲南省で見た玉龍雪山の姿を思い出させてくれた。⑤⑥
⑤ ⑥
こんな訳で、今回の韓国で私は、日本では見ることのできない程の一生分の紅葉を鑑賞できたのである。
10月28日から5泊6日で韓国の西部(写真①)を旅したので、その簡単な報告をしたい。
韓国の仁川(インチョン)空港と新千歳空港間は、わずか2時間半のフライトだし、日本との時差もないので、外国旅行といってもほとんど疲労しなかった。
①
この度の旅行は、丁度、韓国の晩秋に当たり、一生分の紅葉狩りを楽しむ事ができたので、先ずそのことから書きたい。
旅の2日目、先ず最初の宿泊地水原(スオン)からバスで3時間程南へ行った所にある鎮安(チナン)町の「馬耳山(マイサン)道立公園」に行った。
駐車場でバスから下りて紅葉が続く遊歩道を1.5km程歩いて行くと、突き当たりに馬の耳に似た2つの山(標高673mと678m)が見える場所に着いた。②
そこには「塔寺」と自然石を積んだ石塔が80もあって、まるで霊界に入り込んだような独特の雰囲気を感じた。③
② ③
しかし、遊歩道の両側に延々と続く色鮮やかな紅葉には目を奪われた。④⑤⑥
木曜日だったので韓国の若い人たちは少なかったが、多く出会った年配の女性たちが着ている上着やスラックスの色に圧倒された。紅葉も負けてしまうのではと思う程の鮮やかな赤色やピンク色ばかりだったのだから。
ガイドさんは、韓国では年を取ると明るく見える色を好み、顔や気持ちを引き立てるのだと説明してくれた。
④ ⑤
⑥
韓国は4回目だが、今回はまだ行っていない仁川、水原、扶余、鎮安、全州、光州、南原など、韓国と中国を挟む海・黄海沿いの西側を巡る旅になる。
百済時代や高句麗時代などの古い遺跡がどの位残っているのか、そして、古代から中世、近現代まで、戦争と植民地時代を含め、日本との様々な交流の跡を見て来たいなと思っている。
丁度、紅葉のシーズンでもあるらしいので、韓国の歴史スポットを美しい自然の中で発見してくる積りだ。
帰国は11月2日。
それまでブログを休みます。
今回、「済州民族村博物館」で罪人の取り調べ所を見に行った時、ガイドが「罪を着せられたチャングムが取り調べを受けた所です。チャングム役をして下さい。」と突然私に言った。私で良ければと覚悟を決めて、罪人が座る椅子に座った。
すると両手、両足をロープで椅子に縛られた。それから真ん中を縛り、バッテン型にした二本の垂木を開いた両足の間に入れられた。ガイドが二本の木の上部を手で開くと、足の太ももが木で押しつぶされる仕掛けだ。私は顔を歪めて大声で「何も悪いことはしていません。お許し下さい。」と本当らしく叫んだ。
そこから少し離れた所に行くと、木でできた牢屋があった。左の牢には罪人の人形が置いてあったが右は空だった。
するとまたガイドが私に「右の牢に入って下さい。」と言う。
行きがかり上、仕方がないので、低いくぐり戸から牢に入った。すると真ん中の木の堅い椅子に座れと言う。座った私の首の後ろから前に向かってU字型の厚くて重い板が掛けられた。余りの重さに驚いた。さらにガイドは首の後ろを締め付ける板をするという。そんなことをしたら私の首が絞められてしまうではないか。危険を感じた私は「高血圧症だから、それは止めて!」と急いで叫んだ。瞬間的だったが、本当に恐ろしい気持ちに襲われたのだ。
牢の外で見ていた妹から、「よくやるね。」と非難めいて言われた。でも、誰かがしなければならないのなら、私が馬鹿になっても良いと思うのだ。それに旅の思いで作りの一つにもなると思うのだがどうだろうか。正直な所、ちょっぴり楽しかった。
延べ5日間の韓国旅行だったが、ガイドさんの話などで知る事ができた隣国、韓国の現代事情を少し書くことにする。
【少子化が進んでいる】
ガイドの話によると、最近は「DINKS」の夫婦が多くなっているというのだ。
ご存知の様に「DINKS」とは、「Double INcome No Kids」の頭文字で、共働きをしていて収入は二人分あるが、豊かな経済生活を追求するために子どもを産まない夫婦のことである。
韓国では現在、大学まで出すと子ども一人にかかる教育費は23,000万W(日本円で2,300万円)だという。それにアパートを買おうとすれば1坪600万W(60万円)するので、30坪なら18,000万W(1,800万円)になるのだという。だから合計特殊出生率も1.2人と低くなったと言っていた。
ガイドさん自身も40代らしかったが、子どもを一人育てながら日本語ガイドを続けているのだという。
勿論、晩婚化も進み、平均初婚年齢は男性31才、女性28~29才だという。いずれも日本とよく似た晩婚化、少子化事情だと思った。
旅の終りにソウルに寄った時、学生達が高すぎる授業料に対して抗議するデモの行列に出逢った。年配の女性ガイドは、「このデモは、親たちも賛成しています。」と言っていた。
【国民の三大義務】
納税の義務、教育の義務は日本と同じだが、韓国には2年間の徴兵義務がある。
兵役は20才以上になった男性に義務づけられるが、本人が病気だったり、老親を扶養していたり、オリンピックなどでメダルを取って国威を高めた人は免除されるそうだ。教育を受けている場合は、兵役期間がその分延期されるそうだ。老親を扶養している場合の免除規定は、儒教思想が強い韓国ならではだと思った。
そう言えば大人気のあるタレントが、兵役を逃れていた事が問題になった事がある。タレント生命を考えると、売れている最中に軍隊には行きたくないという気持ちも分かる。(彼は2年間兵隊に行ったが、戻ってきてからも人気は衰えなかったらしい)
韓国に敵対する北朝鮮がある限り、政治的軍事的な緊張が続くので、徴兵の義務は韓国の若者にとって実に悩ましい問題なのだろうと思う。
【男女の社会的な地位】
韓国は古くから儒教思想が国民の生活に強く影響して来たので、男尊女卑の社会風潮は伝統的に日本よりもずっと強かったらしい。
結婚すると日本と違って夫婦はそのまま別姓だが、今までは子どもが産まれると子の姓は父親の姓になっていた。父系制度だったのだ。ところが今回のガイドの説明によると、今年から戸籍制度が変わって、子どもの姓は父の姓か母の姓かを選べるようになったそうである。韓国の民主化運動の影響なのだと思う。
振り返って日本の戸籍制度を見ると、男女が結婚した時、どちらかの姓を選ぶのだが、これは実際には片方の姓を捨てることを意味する。現状では98%の女性が自分の姓を捨てているが、ここに日本の男女の社会的地位の格差が反映しているとも言える。
10年以上も前から何度か、結婚する夫婦が別姓も選択できるようにするという民法の改正案が国会に出されたが、そうなると日本のより良い家族制度の伝統が壊れるというある政党の強い反対によって未だに日の目を見ていない。こうしてもたついている日本に比べて、韓国の法律上の男女平等は速いスピードで進んでいるように感じた。
【太王四神記のオープンセット】
済州島の観光の目玉として新しく登場したのが、ドラマ「太王四神記」のロケのために作られた猫山峰のオープンセットだ。何もない平原に突如として作られたこのセットは、高句麗国の風俗を想像して、1年もの月日と大変な費用をかけて作られたのだという。
そのセットは、まるで1つの小国がそこにあるように再現されていた。
特に最も大きな王宮は見事に作られていたし、ドラマの様々な場面を撮影できるように、楼閣、商人街、飲食店、小川、橋、見張り台、鐘楼なども当時を想像できるように作ってあるのだ。私には京都の太秦の映画村よりも立派な感じに思われた。
ここにも韓国が将来に渡って映画やドラマ、音楽などの文化をアジアのみならず、世界に輸出して外貨を稼ぎ出そうとする文化戦略とその並々ならぬ強い意気込みが見て取れた。
このドラマは先週土曜から毎週、NHKで放送されるので、私は見てきたオープンセットがどの様に使われて撮影されたのかも興味を持って見たいと思っている。
【天帝淵瀑布】
遙か遠くに白い柱のように見える滝である。その滝壺には夜行性の大ウナギが生息しているらしい。
傍の天帝園には韓国人にとって縁起の良いと言われる動物を5匹集めて作った噴水があった。
竜は出世、亀は長寿、鯉は子孫繁栄、豚は金満、雄鳥は夫婦円満を実現させてくれるのだそうだ。真ん中に作られている壷に、上手く賽銭を投げ入れる事ができればの話だそうだ。一度に人生の幸運を全て手にしようと考える韓国人の考え方が、私には随分滑稽で欲張りに思えた。
また、公園に掛けられている大きな赤い太鼓橋には、天女が舞い降りたという伝説にちなんで、真っ白い天女の浮き彫りが何体も橋桁に貼り付けられていた。これも日本人には違和感のある韓国的な美意識だなと思った。
【チャングムが親代わりの師、ハンサングンを負ぶって歩いた海岸・ウェドルグェ】
150万年前の火山噴火でできたという海から突きだした高さ20mの岩がある景勝地。その高い海岸線が撮影に使われたという。私達が行った途端、急に雨が降り出したので、急いでバスに戻ったのが残念だった。
【済州民族村博物館】
広い場所に、昔の農家や商家、裁判所などを再現して建ててあり、歩きながら昔の雰囲気に浸れた。何カ所かに「チャングムの誓い」のロケに使われた事を示す立て看板があった。
写真右の広場は昔の豚の飼育場である。隣に人のトイレが作られていて、排泄物が飼育場に流れていく様になっていた。実際に黒豚2頭がいたが、撮そうとしたら向こうに行ってしまい、撮せなくて残念だった。
【民族自然史博物館】
済州島の歴史、風俗に関する資料が集めてあって、分かりやすく展示されている。葬祭と農業、漁業の展示に興味が湧いた。
【山房窟寺】
巨大な溶岩の固まりでできた南西部にある山房山を登って行くと、中腹の洞窟に高麗時代に作られたという山房窟寺があった。洞窟の奥に大きな石造りの仏像があり、二人のお年寄り(僧侶?)がお参りに来た人に御札を渡すなどしていた。帰りに階段を数えたら444段だった。ここで働く人は、毎日通うのが大変だと思った。
済州島には「世界自然遺産」が二つある。
ひとつは①に書いた巨大溶岩洞窟の「萬丈窟」である。もうひとつは済州島の東端に位置する「城山日出峰」だ。その他、主な観光場所を紹介したい。
【世界自然遺産・城山日出峰】
風光明媚な海岸を島の東端に突き出た火山「城山」から見る日の出の眺めが素晴らしい所だそうである。
私達が訪れた時間は午前10時を過ぎていたが、50分の自由時間を与えられた。
他の健脚者と一緒に私も182mの頂上を目指して階段を上って行った。私は何度も息が切れ、休み休み登った。中学生や高校生の遠足とぶつかったらしく、狭い階段で彼らの群とすれ違いながら昇降した。数えたら階段の数は全部で634段もあった。たっぷり汗をかき、疲れ果てた。
【ソプチコジのオールイン記念館】
城山日出峰のすぐ南に位置する岬がドラマ「オールイン」のロケ地だが、それを記念してドラマに登場した修道院が素敵に再現されていた。協会も本物らしく作られていて、ひょっとしたら結婚式などにも使われているのかも知れないと思った。
ドラマは貧しい若者がカジノで成功した実話をモデルとして作られていて、私もそれまでの韓国ドラマにはないアメリカロケを取り入れた舞台背景の広がり、カジノの緊張感とスピード感、海を越えたロマンスに、毎回、楽しみに見たものだった。その日も沢山の若者達がその記念館を訪れ、主演したイ・ビョンホンとソン・ヘギョの像やポスターなどの前で写真を撮っていた。
【チャングムの誓いの最終場面撮影地・陣地洞窟】
男尊女卑の風習が強かった朝鮮王朝時代に、王の専属医女に迄上り詰めた女性をモデルとして作られたドラマが「チャングムの誓い」だ。
ここで見てない人のためにあらすじを簡単に書く。チャングムは宮廷の調理場で働く女官だったが、やがて医学に目覚めて勉強する。しかし、宮廷内の政権争いに巻き込まれて罪を着せられ、一度、済州島に追放されるが、その医学への情熱と鍛えた実力のため、ついには王の専属医女になる。しかし、病気になった王の治療に手術を申し出たため命の危険にさらされる。いつしかチャングムを愛するようになった王は、彼女を密かに恋人の元へ送る。済州島に逃げた二人は、王の死後、権利を回復されるが、ある時、洞窟で難産に苦しむ妊婦を見つけ、急遽、初めての帝王切開手術を施して成功する。
この手術の場面の撮影地が「陣地洞窟」である。
ここには旧日本軍が敗戦間近に海岸に作った幾つもの洞窟が並んでいた。立て看板を見たら、海から上陸する米軍を想定し、特攻隊員の自殺場として作られた軍事施設だという。実際には使われなかったと言うが、私は何かしら悲しい感情に襲われた。
比較的広い右から5つ目の洞窟が撮影に使われたのだという。
ガイドの「暗い洞窟の中は戦争、中から見る明るい海は平和です。」と説明した言葉が印象的だった。
(帰りがけに私が「昔の妊婦は一人で洞窟で出産したの?」とガイドに聞いて見たが、答えて貰えなかった)
韓国訪問は3度目なので、出される食事に違和感は無かったが、今回は済州島という南端の島で旅行費用も安かったためと思うが、あまり上等な料理にはありつけなかった。しかし、食事は大切な旅の要素の1つだし、ドラマ「チャングムの誓い」で知られるようになった韓国宮廷料理の医食同源の伝統的な食習慣が注目されているので、ここに韓国の一般庶民の食事の現状について書いて見たい。
まず団体旅行では、食卓に着く前にすでに小皿に入ったキムチと数種類の常備菜が置いてあるのが普通だ。
キムチは白菜が多かったが、大小の大きさの大根もあった。キムチの味は店によって微妙に異なっていた。
常備菜はいかの塩辛、ほうれん草やもやしなどの野菜の和え物(少しのごま油だけで味付けしてあるものが多かった)、小魚の韓国風辛味佃煮、岩のりなどだ。これは食べる時に適当に味付けにも使う。
また、メインが焼き肉なら、肉を包むサンチュなどの葉野菜も用意されている。そしてコチジャンや甘味噌などの調味料も出されている。キムチやコチジャンは発酵食品でもあり、胃腸に優しく、身体に良いと言われている。
これらのキムチと常備菜の小皿料理は、好きなだけお代わりができる所が韓国の特徴である。
食卓に着くと蓋つきの金属製器に入ったご飯と、大きな丼に盛られたスープが出て来る。(スープが無い場合もあるが) 鍋物がメインの場合も多かった。
右側に縦に置いてあるスプーンと金属製の箸で食べるが、食器は手で持ち上げないので、ご飯もスプーンで食べる方が食べやすい。
焼き肉は葉野菜に載せ、添えられている大根の千切りや酢漬け、もやしなどの和え物や好きな常備菜、調味料を乗せて包んで食べる。慣れないと包むのも食べるのも上手く行かなくて困る。
また、岩のりやワカメが良く登場する。特にワカメスープに入っているワカメの量は、信じられないほど多い。岩のりは無機質、カロテンをたっぷり含むし、海草類は一般に低カロリー食品である。
このように韓国では、常にたっぷりの常備野菜、海草類と一緒に肉や魚を食べるので、栄養のバランスが良いし、唐辛子の適度な辛味は身体の新陳代謝を高め、消化を助けてくれるようになっているのだ。味も各自が好きなように調節できる所も良いと思う。
普段でも胃腸の弱い私だが、今回は毎回美味しく食事ができた。
今回も私は、お土産用には韓国の岩のりを、それと自分用にコチジャンを買ってきた。夕べも我流でビピンパを作って食べた所である。
写真①骨付きカルビの焼き肉料理 ②きじ肉のしゃぶしゃぶ料理 ③豚肉の焼き肉料理 ④帰国直前の朝出た日本料理
① ②
③ ④
「冬のソナタ」を見て以来、韓国ドラマに親しんで来たので、今回は日本の隣国・韓国済州島の旅に出た。
行ってみてまず驚いた事は、済州島の風土だった。
韓国本土から90km南に位置する済州島は、日本の福岡県と緯度を同じくするが、250万年前の遙か昔は海の中にあり、70~80万年前に火山噴火によって海中から隆起し、その後110回もの噴火によって今の島が形作られたのだという。
島の中央に位置する1950mの漢(ハル)ラ山の最後の噴火は1002年というが、溶岩流が山から海岸に向かって数十回も流れたため、海岸には奇岩怪石が沢山できた。(写真①龍頭岩)
溶岩流が流れた場所がやがて空洞になって、現在は地下に5つの溶岩洞窟がある。私達はその二つを探索したが、その内の1つ、世界遺産に指定されている萬丈屈(写真②萬丈窟の入出口。数えたら地下まで113段の階段を下りた。)は、30万年前にできた7.4kmもの洞窟で、1948年に発見されたそうである。私達はその内の1kmの深さまで入ったが、その巨大さに驚いた。(写真③は別の溶岩屈の入り口)
① ② ③
また、噴火の度に降り注ぐ石や灰が島中に積もり、硬い石だらけの大地は農地には全く適さないのである。そんな訳で歴史的には朝鮮時代の流刑地の役割を果たして来たのだ。
現在では農家の収入の半分は蜜柑に頼り、他はきゅうりやニンニクなどを栽培しているという。農業や海女は女がやり、男は漁師として海に出るから、済州島の女は働き者だとガイドは説明する。
そんな土地でも麦と粟は採れたそうで、それを主食にしていたという。
1960年代に日本に習って蜜柑の栽培をした所、温暖な気候が適し、かなり良い収穫ができたそうである。初めの頃はその蜜柑が高値で売れ、そのお金で子どもに大学教育を受けさせることができたそうだが、やがて我も我もと多くの人々が蜜柑を栽培し出すと、供給過剰から価格が暴落し、栽培のうま味はなくなったそうで、今は観光のための栽培が中心だという。
2006年、韓国で初めての「特別自治道」に指定されて以来、現在の済州島の人々はその独特な自然遺産を観光に活かす道を進めているのである。丁度時期的にドラマ「春のワルツ」で感嘆させられた菜の花畑もあちこちに見られ、桜もほころび始めていて、満開の真っ赤な椿も私達を歓迎してくれた。
新千歳空港から3時間弱で韓国へ行ける直通の飛行機の旅があったので、行くことにした。
韓国映画やドラマの撮影舞台として多く使われる済州島に3泊と、ソウル1泊のツアーだ。
韓国は2回行っているが、今回はやはり韓流ドラマが好きな妹と行く。
野菜が一杯で美味しい韓国料理も楽しみだ。
数日留守にするので、今朝、ほとんど雪が溶けた庭木の冬囲いを外したり、根本に保温のため置いてあった枯れ草を片づけた。
見ると今冬は積雪量が多かったせいか去年よりも傷んだ木が多い。しかし、チューリップやヒヤシンスなど秋に植えて置いた球根類が一斉に発芽しているので、留守の間に伸びると思うと帰ってくるのが楽しみだ。厳しい冬を乗り越えた草木がこれから半年、生き生きと伸びていって欲しい。
「日本統治下の朝鮮で1919年に起こった3.1独立運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将の15年分の日記など、大量の資料が見つかった。独立運動への鎮圧の実態や、民族独立運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている」という記事が私の目に飛び込んで来ました。
その日記には「1919年4月15日起こった「提岩里事件」は、ソウル南方で日本兵が約30人を協会に閉じこめ、虐殺、放火。宇都宮らの知らない間に発生した事件だったが、朝鮮軍は発表で虐殺や放火を否認する。日記では「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」「虐殺、放火を自認する事と為り、帝国の立場は甚だしく不利益」となるため、幹部との協議で「抵抗したるを以て殺戮したるものとして、虐殺、放火は認めざる事に決し、夜十二時散会す」(4月18日)」と記されていると報じていました。
私が韓国を訪れたのは、確か9年前の夏でした。
その旅を今まで外国旅行体験記になかなか書けなかったのは、他の国とは違い、私にはとても重く感じられた旅行だったからです。でも今朝の新聞を読み、やっぱり書かなければと思いました。
そのツアーは「韓国の歴史と文化を訪ねる旅」で、6日間、韓国の世界遺産だけでなく、朝鮮統治時代の日本政府や日本軍が犯した加害の歴史跡を訪ねた旅でした。
訪れた場所の一つが、朝刊に出ていた「提岩里事件」が起きた協会でした。
そのキリスト協会は、のどかな田園地帯にあり、建て替えられたばかりだという小さな協会でした。
朝鮮人の遺骨収集のために北海道にも何度か来たことのある協会の羹牧師は、静かな声で私達に説明を始めました。
「1919年のその日、日本軍から、以前起こした行為を謝りたいので、村の男性は全員、協会に集まるように、という連絡がありました。それを信じて村の男性のほとんどの人達が集まったら、間もなく、外から鍵を掛けられて放火されました。窓から逃げようとした人達は協会を取り囲んでいた日本の兵隊に射殺されたので、ほとんどの人が逃げることができずに焼死し、助かった人は僅か一人だけでした」と。
礼拝堂の階下に事件の展示室が作られていて、数十年前のその事件を絵や当時の新聞記事などを使って、わかりやすく展示していました。中に、当時、ドイツの新聞がその事件を報じたコピーもありましたが、その時は未だ、日本は事件を認めていないという説明でした。
私は、事件の起きた場所に立ち、その時の様子を想像したら、直接、私自身がした事ではないのですが酷く胸が詰まり、「加害者である日本人の一人として、本当に申し訳ありませんでした」と、羹牧師に心から謝罪しました。
すると彼は、「日本軍だけが悪いのではないのです。当時、日本軍の植民地支配を跳ね返す力がなかった我が国も悪かったのです。」と言ったのです。思いがけないその言葉に、私は少しだけ救われた感じがしました。
翌日、日本の歴史教科書問題を契機に韓国が作つた「独立記念館」に行きました。
そこでは、日本に支配されていた当時の数々の史実が、子どもでもわかるように、実物大の人形や模型を使って幾つもの部屋に展示されていました。
それを見ながら小学1~2年生位の男の子どもと母親が、私達の傍で何か話しをしていました。
どんな事を話しているのかと同行者の一人がガイドさんに訪ねると、「『日本人って悪い人だね』と言った子どもに対して、母親が、『昔の日本人は悪かったけれど、今の日本人は良い人達だから、決して嫌いになったら駄目だよ』って、言ったのです」と、彼女は涙を浮かべながら答えてくれたのです。その説明を聞いて私の胸も熱くなりました。
夕方、3.1独立運動の発祥地として知られ、当時の様子を表した大きなレリーフの銅板が、物語風に幾つも並べられているソウルのタプコル公園に行きました。
丁度、大勢の高齢者が集まり、碁をしたりして夕涼みをしていましたが、私達を見てほろ酔い気味の一人の老人が近づいて来ました。「お前達は日本人だろう。ここに何しに来たのだ」と大声で言いました。私達は集まって来た人達に取り囲まれてしまいましたが、ガイドさんが「日本人ですが、このレリーフを見に来ました」と説明し、何とか収めてくれました。
私達にとって韓国の旅は、日本人であることが恥ずかしくなる様な辛い旅でした。
でも、日本との歴史的な関係の事実を知らなければ、韓国の人達、ひいては世界中の人達と、本当の相互理解や国際交流はできないのだと、考えさせられた旅でもありました。
去年、私は図書館から、フイリピン、韓国で中学生が学習している歴史の教科書を借りてきて読んでみました。そこには私のような普通の日本人なら、まだまだ知らない歴史が、沢山書いてありました。私達は知らなくても、その国の人達は、学校で教えられて知っているのです。
1909年、ハルビン駅で伊藤博文を銃殺した殺人犯の安重根(アンジュグン)は、韓国では英雄です。何故なのか。(安重根記念館にも行きました)
また、日本にいる外国人の中で一番多いのは韓国朝鮮人です。何故なのか。
世界の中でも旧日本軍にだけ設けられたという従軍慰安婦にさせられた女性のほとんどが韓国人だったのですが、どうしてか。
私達は、そうした歴史的事実や答えを知っている必要があると思うのです。
そのためにも、この度発見されたこの日記が、新しい歴史の真実を解明するのに役立って欲しいと心から思います。