花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「オーストリアの旅」(19)

2014年10月22日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪首都「ウイーン」にて≫③

午後は約5時間の自由行動だった。解散したのは「オペラ座」の前だった。
私は同じ1人参加の気が合う人と2人で、「ウイーン中央墓地」と「オペラ座見学」の2箇所に決めた。「オペラ座見学」の時刻は3時からだったので、先ず17番電車に飛び乗って「中央墓地」に向かった。

切符は電車内で買うと高いので、予め「キオスク」から1枚2.2€のを往復分買って置いた。それを乗車後直ぐに電車中央の青色刻印機に入れて刻印した。そうしておかないと、検札の人が来た場合、罰金を取られるのだ。
電車は高層ビルが建て込む市内から、徐々に郊外の住宅地に向かった。30分程乗って「中央墓地前」で下車した。

 

門の横には大きい花屋があった。中に入ると街路樹が生い茂った広い道路があり、その両側に墓標が立てられていた。
以前市内5箇所にあった墓地を、1874年にここに1つにまとめたのだそうだ。良く手入れがされた公園の様な墓地だった。
草刈をしていた男性にに聞くと、ウイーンで活躍した楽聖たちが眠っている左側の32A区に案内された。
クラシック好きの私にとっては、有名な作曲家が一同に眠っている墓地は、まさに聖地だった。

                         (べートーベン)                     
 
 (シューベルト)           (モーツアルト)※遺骨が無いので「モニュメント」である。
 
  (マーラー)                (ヨハン・シュトラウス 父?)
            
         (ヨハン・シュトラウス 子?)       (フランツ・スッペ)


雨が落ちて来たので、それ以上探索するのを止めて、電車で「オペラ座」前に戻った。

2時45分になっていたので、急いで館内見学の受付に行った。既に大勢の人が並んでいた。
並びながら途中に2箇所置いてあった立て看板を見ると「一般料金は7.5€、65歳以上のシニアー料金は6€」と書かれていた。私は窓口にパスポートを見せて「シニアー」と言って買った。
私以外は誰もそれに気付かなかったらしく、僅か1.5€の事でも皆残念がっていた。

説明員男性の案内で入り口階段周辺、待合場所、貴賓室、劇場などを回った。パリのオペラ座を見学しているので、余り驚かなかったが、日常的に本物の音楽やオペラ、バレーなどに接することができる環境のウイーン市民が実に羨ましかった。
館内の写真は、フラッシュが禁止されていた。





 



 

    

これで「オーストリア12日間」の観光が全て終った。
最後の夕食は、居酒屋「ホイリゲ」で熟成がまだ若い今年のワインを飲みながら食べる食事だった。私達が行った所は、世界的な有名人も訪れた時の写真が飾られていた。

 

翌日は午後13;20発のオーストリア航空成田直行便で帰国した。機内は満席で、機体がかなり揺れたが、予定通り無事に帰国できた。

これで長かった「オーストリアの旅」19回を、何とか完成させる事ができた。歴史、文化、芸術、自然のどれもが豊かな「オーストリア」は、予想通りの素敵な国だった。今回も私の旅に付き合ってくれた皆さんには感謝を申しあげる。皆さんは記事からこの国をどう思っただろうか。 (完成)

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「オーストリアの旅」(18)

2014年10月21日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪首都「ウイーン」にて≫②

いよいよ旅も終りの日が近づいて来て、10日目は午前中が「ウイーン市内の観光」、そして午後は自由行動だった。

朝9時にホテルを出て、最初に「シェーンブルン宮殿」に向かった。
私自身は2回目だったので、グループの人たちに写真を撮って上げたりした。

この宮殿は17世紀の初めに狩猟用の森だった所から美味しい水が発見された。その後1696年に「レオポルド一世」の命で起工。フランスの「ベルサイユ宮殿」に負けない美しい宮殿を建てることになったが、財政難で計画は縮小された。
1743年、女帝「マリア・テレジア」が大改築を命じ、今日の様な壮大な規模の宮殿になったという。

1805年、「ナポレオン」がウイーンを占領した時は、この宮殿が宿舎として使われた。
また、1918年、「カール一世」が皇帝の退位文書の署名をし、ハプスブルグ家最後の皇帝となった。翌日、宮殿は「オーストリア共和国」の所有となった。
宮殿の部屋数は1441室あり、一般には2階部分が公開されている。写真撮影は禁止だった。

私は、今回初めてグループとして「ベルグルの間」を観光した。夏涼しい一階部分に「マリア・テレジア」の希望によってしつらえられた彼女専用の部屋が幾つも並んでいた。居間、食堂、寝室など、どれも自然や南方の動植物を愛したという彼女の好みで豪華に飾られていた。隠し扉もあって、興味が持て、満足した。



        

外に出てから小高い丘に建つ軍事的な記念碑の「グロリエッテ」を眺めた。歩くと片道20分はかかるそうだ。
この時期はまだ草花が沢山咲いていて彩りに溢れていたが、10月半ばになると冬景色になってしまうのだろうなと思いながら眺めた。



次にバスで「シュテファン寺院」に向い、傍で降りた。
「国立オペラ座」から「シュテファン寺院」までの500m程は「ケルントナー通り」と言われ、歩行者天国だった。
「シュテファン寺院」の尖塔は137mあるとか。近くからは写真に入らなかった。
ここにはハプスブルグ家の歴代君主の墓がある。また、モーツアルトが結婚式をし、葬儀を挙げた教会でもある。外観はゴシック様式だが、内部の祭壇はバロック様式で建てられている。
地下室の「カタコンベ」には、猛威を振るったペストの死者2000人の遺骨が納められている。
寺院内は豪華ではあるが歴史を感じさせる落ち着きもあった。



 

 

 

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「オーストリアの旅」(17)

2014年10月20日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪首都「ウイーン」にて≫①

「バッハウ渓谷」をクルーズし、「デルンシュタイン」で自由散策後、バスで1時間半かけて初日に泊まった「ウイーン」に戻った。
ホテルに行く途中、「オーストリアのガウディ」と言われている「フンダートヴァッサー」(1928~2000年)が建てた代表的な建築である「市営住宅」を見に行った。華やかな色彩と曲線で造られた建物だったが、私自身は見るなり混乱してしまった。



 

夜は「楽友教会」で行われる「モーツアルト・コンサート」に行く事になっていた。会場が市民公園の傍だったので、そこにある「ヨハンシュトラウス像」を見に寄った。軽く華やかなダンス曲を多く作曲している彼に相応しく像は金色だった。
少し離れた所に大きな花時計があった。

 

公園から「楽友教会」のコンサートホールは近かった。この黄金のホールは、ウイーン・フィルが毎年行う「ニューイヤーコンサート」の会場なのだ。
席は全て指定席で空席は少なかった。舞台の左右に客席を向いて座る席もあるのには驚いた。指揮者も演奏する人たちも皆、カツラをかぶってモーツアルトの時代の衣装をしていた。
私達は舞台の直前席だったので、首が少し痛くなったが、約2時間の演奏と歌曲を十分に楽しむ事ができた。
(演奏中以外は写真撮影ができた)





         



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「オーストリアの旅」(16)

2014年10月19日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪「バッハウ渓谷」をクルーズ≫

「ドイツ」から流れて来た「ドナウ川」は、オーストリアの北部を潤しながら「ウイーン」を越えて隣国「スロバキア」に流れていく大河だ。
「メルク」から「クレムス」にかけての渓谷には古城が多く、また、川岸の斜面にはワイン用の葡萄が栽培されている景色に人気があるらしい。私達は「メルク」の船着場からクルーズ船に乗り込み、東側に30km離れた「デュルンシュタイン」までの1時間半クルーズを楽しんだ。甲板にいると、景色は良いが風が冷たくて寒いくらいだった。

 


  
 

 


船内は、ドイツ、フランス、ロシアなどから来た観光客で一杯だった。途中の駅からは小学生も乗船して来たので、船内は大賑わいだった。小学生の男児は甲板の上の階から顔を出し、茶目っ気振りを披露していた。

  

人口1000人に満たない小さな町「デュルンシュタイン」が見えた。下船して1時間余りの自由時間を思い思いに楽しんだ。
ワインの名産地という事で酒屋で試飲もできた。私はここで93歳の伯母に小瓶の「杏のリキュール」を求めた。
伯母からは「何とも言えないような味の美味しいお酒でびっくりしたよ。」という電話が来た。

 

川沿いの道路を走って迎えに来たバスに乗り、再び90km離れた首都「ウイーン」に戻った。

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「オーストリアの旅」(15)

2014年10月18日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪メルク修道院≫

旅の9日目は「ザルツブルグ」を後にして、バスで2時間半かけ、東北東に213kmの距離を「メルク」に向かった。距離的には「ウイーン」に近い場所にある町なのだ。
30分走った所で雲が低く漂う景色が見えた。湖から立ち上った水蒸気が、冷えて雲になったらしい。幻想的で美しい景色だった。
山側の丘の上には農家が見えたが、屋根に太陽光発電パネルをつけていた。

 







「メルク」の町に入った。ここは現在、人口僅か5200人ほどの田園光景が広がる町だが、この町の特徴は「メルク修道院」の存在だ。
最初は11世紀にベネディクト派の修道院として建てられたが、18世紀に改築されて、現在のような「バロックの宝石」といわれる豪華な姿になったという。
またこの修道院を有名にした出来事は、「マリー・アントワネット」が1770年にフランスへ嫁ぐ途中、ここで一泊したことである。



バスを降りて小さな階段を下りると門が見えた。

 

正門を抜けると広い中庭に出た。



中庭の奥の入り口から修道院の建物に入った。内部はフラッシュ撮影が禁じられていた。
「大理石の広間」の天井画は、まるで宮殿の大広間と間違えてしまうような豪華さだった。

 

「付属教会」を外から見てから、内部を見学した。ここも華麗な装飾が施されていた。

 

10万冊の蔵書を誇るという付属図書館も教会に隣接していた。豪華だったが、内部は撮影できなかった。付属教会を出て空を見上げたら、秋の鰯雲が出ていた。

 



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「オーストリアの旅」(14)

2014年10月18日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪「ザンクト・オルフガング」という町≫

この町は、「ザルツブルグ」からバスで1時間40分程のところにある人口2800人の小さな町だ。
「オーストリアの旅」(7)に書いたように「ヴォルフガング湖」の湖畔にあって、標高1783mの「シャーフベルク」山に登る登山鉄道が出ている。
今回は、5日目と6日目にこの町で連泊したが、町の散策は出発する7日目の朝に、各自で1時間ほどしただけだった。こじんまりとした町だったが、とても美しかった。

まず出発の準備をしてから「地区教会」に行った。15世紀に書かれたという祭壇画が重厚な雰囲気を醸し出していた。

次に小さな船着場に降りて見た。船着場の傍にはホテルやレストランがあり、花で素敵に飾られていた。この辺りが映画の撮影舞台として使われたことがあるそうだ。

 







≪チロルの伝統的な木造建築のある町≫

5日目に立ち寄った町「ハル」「アルプバッハ」には、歩道の面白い絵や花で美しく飾られた家々、「牛祭り」の行列、湖畔に立ち並ぶ風光明媚な町があり、見るだけで心が癒された。
日本では敷地も家も塀や生垣などで囲って、外部の人には見えない様にすることが多い。
ヨーロッパを旅行すると、いつも行きずりの人を意識して住まいを表現する。「おもてなし」とは何かを教えられるのだ。

















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「オーストリアの旅」(13)

2014年10月17日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪「ザルツブルグ」という街≫②

「シュターツ橋」を越えた南側一帯は旧市街だった。
最初に「モーツアルトの生家」が建つ場所へ行った。独特の黄色い色をした建物の4階部分に1747年からモーツアルトの父母が住んでいたという。
父「レオポルト」と母「マリア・アンナ」の間には7人の子どもが生まれたが、成人したのは4番目の女児ナンネルと末子のモーツアルト(1756年1月27日生まれ)の二人だけだったという。
音楽教育者でありバイオリンニストで、当時、ザルツブルグの宮廷音楽家だった父は、早くからモーツアルトに天才振りを見出した。
大司教の理解を得て「ミュンヘン」での演奏旅行を初め、6歳の時にはウイーンのマリア・テレジアの御前でもその才能振りを披露した。
以降、父と一緒にヨーロッパ各地で演奏旅行を成功させた。その傍ら、作曲も手がけて行った。

この「生家」には、彼が使った「クラビーア」(当時の小型ピアノ)や直筆の楽譜、生活用具、肖像画などが展示されていたが、撮影は禁じられていた。

しかし、22歳で母が死去、26歳で結婚した後に父も亡くなった。35歳の12月にモーツアルトは死去したが、死亡原因の特定や遺体や遺骨は、未だどこにあるのか確認されていないのだという。一説によると、当時の社会の黒幕の手で暗殺されたのではとも言われている。

次いで「ゲトライデガッセ通り」に出た。この通りはとても狭いが、両側に商店がぎっしりと立ち並んでいて、それぞれの店が出している鉄細工の看板がユニークだった。(文字が読めない人が多かった時代でも、看板を見れば何の店か分かるのである)

 

傍に「大聖堂」があり、その付近が広場になっていた。広場ではテントを張って屋台が軒を並べ、賑わっていた。私はその一つの店でモーツアルトの絵葉書を買った。



また人形店では、温か味がある手作りの人形が売られていた。



「塩専門店」に行ったが、色々なハーブを混ぜ込んで付加価値を高くした塩が沢山売られていた。一昨年、チュニジアの塩湖で取って来た塩がまだある私は、何も買わなかった。



自由時間に知人と「大聖堂」に入ってみたが、「モーツアルト」が洗礼を受けた洗礼盤があった。また、5つものパイプオルガンが設備されていたが、その1つ(前の右手)がモーツアルト専用のものだったことを知った。



 

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「オーストリアの旅」(12)

2014年10月17日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪「ザルツブルグ」という街≫①

旅の8日目は、午前中に世界遺産「ザルツブルグ」の市内を観光した。
「ザルツブルグ」は、オーストリアの中央部北側に位置する人口14万人の町で、「ドイツ」との国境に近い。町の名は「塩の城」に由来する。この街の周辺から岩塩が沢山取れ、その販売によって大きな利益を得、発展した町なのだ。
バスは電気で動く「トロリーバス」だった。



一方でこの町は、作曲家「モーツアルト」の故郷としても知られている。

私達は先ずバスで新市街の「ミラベル宮殿」に行った。
ここは1606年に大司教ヴォルフ・ディードリヒ愛人サロメ・アルトと過すために作った大きな館だ。現在は市役所、結婚式場として使われていて、日本からもカップルが来るという。広大な庭園では、ギリシャ神話の神々の彫像や幾何学模様に草花が飾られていた。
立ち上がろうとして後ろ足だけで固定されている馬と噴水など、財力を欲しいままに使った当時の大司教の権力の大きさを表わしていた。

またこの庭園のあちこちにアメリカ映画「サウンド・オブ・ミュージック」が撮影された場所が幾つも残されていた。



 





庭園を出て「ザルツァッハ川」に架かる「シュターツ橋」を目指した。川を前にした角の家が指揮者「ヘルヴェルト・カラヤン」が住んでいた家で、もう一方の角の建物が最高級ホテル「シュタインホテル」だった。
 
 



「シュターツ橋」の欄干には、もう珍しくは無いが、愛を誓う錠前が多数掛けられていた。



橋から高台に目をやると、そこには「ホーエン・ザルクブルグ城砦」が聳えていた。
この城砦は、1077年当時、神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇の争いが起こり、教皇側だったザルツブルグの大司教が建造を始めたという。ここは見学しなかった。





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「オーストリアの旅」(11)

2014年10月16日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪「グラーツ」という街≫
旅の2日目の午前中、「セメリング鉄道」に乗車してからバスで「グラーツ」に向かった。
「グラーツ」は「スロベニア」と国境を接し、オーストリアの南東に位置する人口22万人の街だ。
14世紀には「ハプスブルグ家」の都だったため、大学の設立や音楽、建築などで文化が花開いた。
至る所に17~18世紀に建てられた建築が残る旧市街は、ユネスコの世界遺産に登録されている。



 

 

先ず私達は世界最大の「武器博物館」に入場した。
内部は木造の床や階段でできた5階建ての建物に、槍、刀、兜、甲冑、銃剣などが所狭しとぎっしりと並べられていた。この街は、15世紀にイスラム教トルコ軍に対する東の砦の役割を担っていたので、その時に実際に使用された武器だという。
鉄製でさび易いため、内部は湿度管理がされ、見学者には手で触れないように注意された。

 

 



次にケーブルカーに乗って小高い「城山」に上がると、「グラーツ」のシンボルである13世紀の「時計塔」「砲台」があった。
「時計塔」は文字盤の直径が5mもある大きなもので、現在とは長針と短針の指し方が逆だった。
「時計塔」の裏に行くと、「ムーア川」が流れる「グラーツ」旧市街を一望できた。

 





下りは階段を下りたが、その途中、残されている「城壁」が確認できた。



その日のホテルは「グラーツ」だった。


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「オーストリアの旅」(10)

2014年10月10日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪インスブルックという街≫②

チロル州の州都「インスブルック」は、アルプスに囲まれた自然豊かな街なので、旧市街には山から水を引いた公共水道があって、散策する人たちに利用されている。デザインが良い。
胃腸が弱い私も少し飲んで見た。美味しかった。

 

また、美味しそうなパン屋やピザ屋、レストランも目に付いた。看板や入り口のポスターを見る限り、価格は全て前回行った北欧の60%程と安かった。食料品の消費税が、他のものの半分なのも良いと思った。



 



古い建物の外観を生かした美しいホテルなどが多かったが、見ると「出窓」も多く作られていた。ガイドの説明では、限られた間口でも太陽光を沢山取り入れたいという考えからだという。

また、外壁に絵を描いた古い建物も多かった。実に良く保存されていて街に中世の雰囲気をそのまま残す事に成功していた。見ている内に私も、自宅の壁に何か小さな絵を描きたくなった。

 

 

最後の見学場所は大聖堂「聖ヤコブ寺院」だった。フラッシュ撮影が禁じられていたので、写真の写りは良くない。
この寺院は、ゴシック様式だった建物を1724年に改築して、豪華な「バロック装飾」を施したものだった。私はこうした絢爛豪華な教会や寺院を見ると、『現世は貧困に喘ぎ人間らしい生活が困難でも、素晴らしい死後の世界が待っているのだから、素直に今の自分や家族の境遇を受け止めて生きなさい。』と言っている様に感じるのだ。
二階に置かれている「パイプオルガン」はとても美しくデザインされている素晴らしい物だったが、音色が聴けなかったのが残念だった。



           



           

 

             
           

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「オーストリアの旅」(8) 

2014年10月08日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪素晴らしかったヨーロッパアルプスの光景≫④

ヨーロッパアルプスの光景は「やはり素晴らしかった!」で締めたい。
今日は、4日目(19日)の午後に「インスブルック」からケーブルカーとロープウエイを乗り継いで登った「ハーフェレカー」山(標高2334m)から見た絶景である。

「インスブルック」(「イン川にかかる橋」の意味)は、北はドイツ、西はスイス、南はイタリアとの国境が近い場所にあり、標高574mの(人口12万8000人)のチロル州の州都である。
その日、晴天に恵まれた山頂からは、360度の「ノルトケッテ連峰」(「北の鎖」の意味)の雄大なパノラマを見る事ができた。
 
この国にとっては貴重と思われる「野菜サラダ」が付いた昼食を久し振りに食べた(この日は夕食にもサラダが付き、嬉しかった)後、バスでケーブルカー乗り場に向かった。
途中、ケーブルカーの下に整備された登山道が続き、登山をしている人たちも見えたし、自転車で登って来る人や下っている人がいて驚いた。





2つ目のロープウエイの山頂駅から山頂までは、15分程掛けて登山道を登るのだが、肺活量が一般人の60%しかない私は途中で4~5回休憩しながら、やっと辿り着く事ができた。


山頂には10分ほどいた。360度見渡せる絶景を見渡しながら、この山の向こうは前に登ったイタリアの「ドロミテ」だろうかとか、スイスアルプスだろうかとか想像した。
その後、仲良くなった人たちと写真を撮りあった。実に晴れ晴れした気分だった。







山頂駅に集まる時間が迫っていたので急いで下山したが、少し下った所で右横にそれて、火口の様な場所にも行って見た。



さらに下ると、遥か眼下に自転車を持ち上げて写真を撮っている人がいたので驚いた。後で聞くと、コマーシャルの撮影をしていたらしかった。
程なく山頂駅に着いた。





下りは下方の写真が割合良く撮れた。ケーブルカーから見ると、確かに「イン川」が街を貫くように流れていた。
素晴らしかった絶景を瞼に焼き付けてその夜のホテルに向かった。

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「オーストリアの旅」(7)

2014年10月07日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪残念だったヨーロッパアルプスの光景≫②

7日目の22日も、朝から小雨模様の天候だった。
この日は宿泊地の「ザンクト・ヴォルフガング」の町を10時過ぎまで散策した後、10時半にバスで発って「ヴォルフガング湖」の湖畔から出ている「シャーフベルク登山鉄道」に乗車した。

この鉄道は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも登場した小さな蒸気機関車が、レールの中央にあるギザギザのレールに、蒸気機関車のカムを噛ませて登って行くものだった。

前日の様に高山に登っても、また何も見えないのではと案じながら列車の最前席に乗り込んだのだったが…。
走り出して間も無く運転席の窓ガラスに雨粒が落ちて来て、やがて真っ白になり視界が効かなくなった。25分後に「シャーフベルク山頂駅」に到着したが、強い風が吹き気温は2~3℃しかない。雲の中に入った状態で視界はほとんど効かなかった。





 

グループの大半の人達は山頂駅舎に入って待つと言うが、北海道からただ一人参加した私がこんな天候でたじろぐ訳には行かないと思ったのと、幸いにダウンの外套を着て万全の寒さ対策をしていたので、決心して遊歩道を添乗員の後に付いて登って行った。
途中に遊歩道の看板があったので、写した。

1m先が見えない状態で不安だったが、添乗員の声を頼りに離れないように注意しながら登った。
やがて目を凝らすと簡単な「ゲート」と木造の「山頂ホテル」らしきものがあった。その直ぐ上が「シャーフベルク山頂」(1783m)らしく大きい望遠鏡が備えられていた。晴れていれば湖を3つも見られる360度の大パノラマが開ける筈だった。残念!

 

ホテルを回りこんでから、ホテルの看板を写し、元の道に戻って皆が待機している駅に着いた。
私ははぐれずに戻れてホッとした。聞くと、結果的に頂上まで行ったのは僅か5人だけだったらしい。まあ、行けたと言う事で、満足する事にした。



(歩いた遊歩道を、下の展望台の図に黄色い矢印で示した)
 

下りの汽車にも一番に乗り込み、写真が撮れる蒸気機関車のすぐ後ろ、最前列の客席に座った。
目の前に向かい合ったカップルがいたので話しかけた。彼らは「ルーマニア」から来たのだと言う。私は昨年5月に行ったことを話して、バッグから鶴の折り紙を出して渡すと、男性が話し出した。
「旅行費用が高いので日本にはまだ行った事がないが、大学のゼミナールで「風呂敷」を研究してその有用性を発表した事がある。」と言うのだ。
こんな場所で、日本の伝統文化を研究した人に出会えたのは、全くの奇遇だと嬉しく思った。

 





汽車から降りて「ヴォルフガング湖」に行くと、曇ってはいたが湖が綺麗に見えた。
その日の宿泊地「ザルツブルグ」に向かう途中で、三日月型をした「モントゼー湖」の湖畔の町「モントゼー」に立ち寄った。映画「サウンド・オブ・ミュージック」に登場する「トラップファミリー」の結婚式を撮影したという教区教会があった。

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「オーストリアの旅」(6)

2014年10月06日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪残念だったヨーロッパアルプスの光景≫①

今日は6日目(9月21日)に「ハルシュタット」という町の「湖のクルーズ」とゴンドラで登った「クリッペンシャタイン展望台」について書くことにする。

前夜宿泊した「ザンクト・ヴォルフガング」からバスで北に20kmの「ザンクト・ギルゲン」へ向かったが、その前夜は強い雨が断続的に降り、朝は雨が上がったものの雲が低く垂れていて、今にも雨になりそうな天候だった。途中の町で山や湖に漂う濃霧の写真を撮りながら、バスは30分程で「ザンクト・ギルゲン」に着いた。





「ザンクト・ギルゲン」の町は人口3700人の町だが、「モーツアルトの母の生家」があって、その一部が「モーツアルト展示室」として保存されている町だ。
「ヴォルフガング湖」の傍の駐車場でバスを降り、徒歩で小さな町を散策した。急に雨が降って来たので、私は慌てて着ていたゴアテックスの雨具の帽子を被って歩いた。

程なく外壁に「モーツアルトの家」と書いてある大きい家に着いた。ここが母親が生まれた家なのだ。道路側の壁には、母親と姉ナンネルの顔が描かれていた。
外観だけ見てから緩いスロープを登っていくと程なく教会があった。さらに進むと小さな広場に出た。
市庁舎があり、その前に花壇で飾られた「モーツアルト像」が立っていた。広場の回りにあるホテルや銀行のベランダは、花々で美しく飾られていた。





駐車場に戻り、バスで「ハルシュタット」に戻ってから観光客で溢れている「ハルシュタット湖」の小さな遊覧船に乗って湖を一周した。周りは急峻な山々に囲まれていた。







下の写真のレストランで昼食を摂ってから、「ダクステイン・クリッペンシュタイン・ケーブルカー」乗り場(標高608m)に行き乗った。ケーブルカーが上がるに連れて視界が濃霧にさえぎられた。1350mの中間駅で乗り換え、さらに山頂駅(2060m)まで行った。

 

そこからは添乗員に付いて緩いアップダウンのある整備された道を進んだが、いよいよ濃霧が深くなり視界が効かなくなって来た。不安になったが、途中の標識を見ながら15分程歩いて行くと、「5フィンガーズ展望台」に着いた。

 

ここには網状になった床を空中に数メートルせり出させた5本の展望台が設けてあり、左の展望台の先端に行って振り向くと、枠に入った写真が撮れる様になっていた。
先端に行っても、勿論濃霧にすっぽりと覆われているので視界はほとんど効かなかった。
口々に「足元が見えないから恐ろしくないね。」と言いながら順番に記念撮影をしてもらい、また山頂駅までの長い登り道を息を切らしながら引き返し、ケーブルカーを乗り継いでバスに戻った。



私は、高山に登り、濃霧の中で大変な冒険をしたのに、何一つ見えなかったことでガッカリした。添乗員に聞くと、「晴れていれば綺麗な2つの湖が見られたのに。」と言っていた。

「ザンクト・ヴォルフガング」に戻る途中で、バスの中から遠くに先程登った「クリッペンシュタイン」(標高1783m)の頂上が見えた。
今展望台にいるなら、綺麗な「ハルシュタット湖」と「ホーエル・ダッハシュタイン」(2996m)が目の前に見えたのにと実に残念だったが、自然相手ではどうする事もできないので諦めるしかなかった。

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「オーストリアの旅」(5)

2014年10月05日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪素晴らしかったヨーロッパアルプスの光景≫③

3日目「グロースグロックナー」を間近に臨んだ「フランツ・ヨーゼフス・ヘーエ展望台」を出発後、バスは「インスブルック」まで195kmを約3時間かけて走った。
その途中、10数分下った所に「エーデルワイス展望台」(標高2571m)があり、バスから降りて10分程写真を撮った。
そこでは、左側から「グロースグロックナー」(標高3798m)、「ソンネンエレック」(3261m)、「フィッシャーカルコフ」(3331m)、「ヨハニスベルグ」(3460m)、「ホーヘドック」(3348m)、「グロベスビースバッハホーン」(3564m)と連なる様にいくつもの高山がまるで立ちはだかるような姿で直ぐ目の前に並んでいた。
最も左の「グロースグロックナー」はほとんど雲に隠れていて裾野しか見えなかったが、私は眼前の余りに迫力ある景観に鳥肌が立つような感動を覚え、その景観を表す言葉が見つからなかった。
山塊が近過ぎるため、私のデジタルカメラには収まらないので、左側から順番に写して行った。











その後も有料山岳道路を下りながら、次々と変わる美しいアルプスの景色を堪能し、やがて「インスブルック」に着いた。夕食の時も誰も口には出さなかったが、私自身は夜寝るまで1日中見て来た凄い景観が頭から離れなかった。







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「オーストリアの旅」(4)

2014年10月04日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪素晴らしかったヨーロッパアルプスの光景≫②

「セメリング鉄道」を降りてから、鉄道と並行する山道を走って迎えに来てくれたバスに戻り、「グラーツ」という町まで行って市内観光をした後、その夜は「グラーツ」のホテルに宿泊した。(「グラーツ」については、町の観光で紹介したい)

3日目の18日は、南部にある国「スロベニア」との国境沿いを「グラーツ」から「ハイリゲンブルート」迄、約4時間バスで走ることになっていた。途中には雄大なアルプスの標高500mの高さに南北に造られた高速山岳道路があるというので、山好きの私の期待は高まった。
しかし、その日は朝から曇っていてすっきりとした景観ではなかった。標高が高くなるに連れて濃霧が漂い、遠くの景色は霞の中だった。
(写真は走るバスの窓越しに撮ったものが多いため、光が反射したり、ピントが合っていないが悪しからず…)







途中、山から滝が流れ落ちている場所の小さなレストランで休憩して、写真を写した。木製の簡単な台の上に、これもまた木彫の妖精がいた。



やがて難工事の末に1935年に完成したという北に向かう48kmの有料山岳道路に入り登って行くと、そこには標高3000m級の山々が連なる大景観が待っていた。



曲がりくねったピンキング道路の左右に見え隠れする景色を楽しむ内に、標高3797mのオーストリアの最高峰「グロースグロックナー」オーストリアで最大の氷河「パステルツェ氷河」を臨む「フランツ・ヨーゼフス・ヘーエ展望台」(2369m)に着いた。

私達は駐車場でバスを降りて、展望台までリムジンバスに乗り換えた。展望台のレストランに入ると急いで昼食を摂り、1時間ほどあった自由時間に展望台に出て、夢中で写真を写した。
「グロースグロックナー」の尖った頂上は初め雲の中だったが、15分もすると雲が徐々に流れてその勇姿を現してくれた。素晴らしかった。



それから展望台の裏山を登り、もう一つ上に造られている展望台と、さらにそこから200mほど離れた低い場所にある「パステルツェ氷河展望台」まで歩いて行った。
そこにはこの地と山を愛し、自らも登山を好んだという「フランツ・ヨーゼフ皇帝」(在位1848~1916年)の氷河をバックに登山姿で立つ像が私達を迎えてくれた。
上の展望台の周りでは数匹の兎より大きい野生の「アルプスマーモット」も見掛けた。



 



下の展望台に戻る途中、上の展望台の写真とバスの駐車場の後方に見えた湖を撮った。
ウイーンからやって来たという13歳の女子学生達にも会った。日本の13歳の中学生と比べると随分大人びて見えた。お互いに山を背景にして写真を撮り合った。本当に素晴らしい体験だった。





最後に売店で「アルペンカレンダー・2015」を自分の記念品として9.9€(1400円)で買った。この日は丁度、私自身の誕生日でもあったからだ。
(付記 レシートを見たら、カレンダーには消費税が20%含まれていたが、その他の店で買った食料品の消費税は10%だった)

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