≪「ボイ渓谷」の村の教会≫
3日目は「アンドラ公国」から3時間半、山を下った所にある「ボイ渓谷」に向った。
何でも10~12世紀、アンダルシア地方のイスラム教徒がフランスを侵略しつつあったために、フランス国王は軍事目的でピレネー山脈南部に新たに領地を建設して領地国を造ったという。
やがてここを統治していたバルセロナの公爵は、人口が増えるように村や城、教会、修道院などを沢山造った。
オリバ修道院長という人は、イタリアに行き、建築家や画家をカタルーニャに招いてロマネスク様式の教会を沢山造らせたのだそうだ。
2000年、「ボイ渓谷」にあるこうした古い教会9箇所が、ユネスコの世界遺産に登録された。
私達は、二つの村の教会を訪ねた。
①「タウル村」の「サン・クレメンテ教会」
小さな教会だった。祭壇周りの壁画はかなり傷みが激しかった。祭壇に置かれていたキリスト像は木造だった。
所が5~6分後に入り口が閉められ、中が暗くなると映像が流れ始めた。祭壇周囲の壁画が以前はどんなものだったかが映し出された。800年以上前の画家達の仕事に感動した。
教会には6階建ての鐘楼があった。鐘楼に登る階段は、梯子を立てかけただけのもので勾配が急だったが、何とか最上階まで登った。
鐘は鳴らさなかったが、そこから見たピレネーの景色はすばらしかった。
教会にほど近いレストランで、「ウズラ鳥の料理」を食べた。美味しかった。
②「ポイ村」の「サン・ジョアン教会」
村に入ると一軒の家に旗が立っていて、共同の水場があった。人は多くは住んでいないようだったが、住んでいる家には花が飾られていた。村からはピレネーの景色が美しかった。
教会の中には入れなかったが、入り口に当時の壁画が残されていた。また、裏にある岩を利用して、羊飼いの様子が再現されいた。キリスト教に関係するのかも知れない。
≪「アンドラ公国」という国≫
「カルカソンヌ」の観光を終え、バスは18時半に1日目の宿泊地「アンドラ公国」の「ラ・ベリャ」を目指した。
暫く田園風景が続いた。温泉が湧くという「テルメ」の町の駅で一度トイレ休憩をしてからは石灰岩がむき出しになった山岳地帯に入った。
やがて道は急なツヅラ折りの山道を登って行った。ピレネー山脈に来たのだ。
3時間走って山脈の中の盆地になっている標高1000mの場所が「アンドラ公国」だった。
険しい山間部にもかかわらず、観光客用のホテルが沢山建ち並んでいて、高給ブランド店がならんでいた。
添乗員の説明では、フランスとスペインに共同統治を受けていた時代が長かったが、1993年3月に独立国となり、その後国連にも加盟した。
2011年までは「タックス・ヘイブン」(租税回避地)の国として知られていた。2012年までは消費税がなかったが、今は4%だ。消費税が20%近いスペインやフランスから、沢山の買い物客が来る。彼らはここで電化製品や耐久消費財などの高額の買い物をするという。また、高原リゾートを目的に来る家族連れも多い。
郵便局や裁判所、軍隊はなく、独自の切手もないが、学校はあり、民族毎の生徒にその民族の言語で教育をしているという。郵便事業はフランスとスペインが行っているので、町には両国のポストが並んで立っている。国内の郵送料は無料だ。
治安は警察が行い、国防はフランスとスペインに委ねている。鉄道、飛行場はないが、道路は整備され、ヘリポートがあるらしい。
議会は一院制で、国家収入の大半はEUからの物資の輸入税だという。
2011年現在、「アンドラ公国」に住む日本人は、4人だという。
今回の旅の初めての宿は「アンドラ公国」のホテルだった。部屋は小さめだったが、水周りは清潔で、食事も美味しかった。
翌朝は少し遅い出発だったので、朝食後にホテルの近辺を散策した。
路線バスが走行していた。見ると運転手は女性だった。
高い山あいの狭い平地に、小さいが瀟洒な教会があった。お洒落な窓の飲食店や小物店が並んでいた。また、トレッキング用品店が多かった。
≪世界遺産「カルカソンヌ」観光≫
成田国際空港から22時に離陸したトルコ航空機は、12時間後の現地時間4時15分(日本との時差は-6時間)にトルコの「イスタンブール」に到着。
前回書いたように、当日「イスタンブール」でISによるらしいテロ事件が起きたという事で、広い空港内でフランスの「トゥールーズ空港」行きに乗り換える11時まで、何処にも行かずに待機した。
この空港はヨーロッパ、西アジア、アフリカ方面に乗り継ぐ「ハブ空港」で、国籍や民族が異なる大勢の人達が行き交っていた。
椅子に座っていた時、隣に座った体格が良く、大きな目をしたお洒落な女性はイラン人だった。私が昨年10月にイランに行ったと言うと、急に彼女との距離が近まり、片言の英語でイランの思い出などを少し話した。私が驚いたのは、イラン国内では全ての女性はスカーフを被らなければならないのに、彼女は派手な色柄の服装で化粧もバッチリ、香水がひどくキツイ。そしてスカーフは被らず、イラン人だと聞かなければ全くそれとは分からない外観だった事だった。
隣席に次に座った女性はイスラエル人だった。彼女は黒っぽい服装をし、夫と子どもを連れていた。英語が話せないので会話ができなかった。
昼の飛行なので飛行機の座席を窓側に取った。飛行機はトルコからギリシャ上空を横切り、地中海に入り、フランス国土に向った。
目的地のフランスは、日本との時差は夏時間で-7時間なので、機内でまた時計の時刻を直した。
フランス上空に来た時、下を見ると地中海が見えた。海辺に大きな町があったが、どこかは判らなかった。
「トゥルーズ空港」には3時間40分後の13時40分に着いた。
飛行機に預けたスーツケースの内、一人のメンバーのが壊れていたらしく、その手続きのために1時間待った。空港側は、同じ様な大きさのスーツケースを持って来て交換してくれたそうだ。
現地ガイドは中年の女性だった。
バスは気温25度ほどある「トゥルーズ」市内は通過して「カルカソンヌ」に向った。
見ると空港の傍に「エアバス社」があった。この町はフランスが世界に誇る「エアバス社」の町だったのだ。
バスで1時間半ほど移動しながら窓外を見ると、何処までも緑豊かな田園風景が続いていた。
小麦、大麦、トウモロコシ、じゃが芋、葡萄などの畑が広がり、時々牛や羊の姿も見えた。実にのどかな南フランスの光景だった。
フランスがヨーロッパの穀倉地帯だという事は、都市にいると分からないが、今回はそれが良く分かった。
やがて「カルカソンヌ」に着いた。
今この町は、人口4.7万人の「オード県」の県庁所在地である。
ここは古くからフランスのモンターニュ・ロワールとピレネー山脈の間にあり、また地中海と大西洋を結ぶ交通の要所だった所として重要視されて来た。
「オード川」を挟んだ向こう側に、二重の城壁で囲まれた城塞都市が造られていて、中に中世の城「コンタル城」が立っている。
内側の城壁がローマ時代の3~4世紀に建造され、外側は13世紀に造られたという。
川の反対側には、旧市街が造られた。
1659年の「ピレネー条約」によりフランスとスペインの国境が定められてからは、「カクカソンヌ」の戦略的な意味が失われると城は荒廃したが、19世紀の中頃、修復の機運が盛り上がって修復され今日に至っている。
1997年、世界遺産に指定され、集客数では「モンサンミッシェル」に次ぐフランス第二位の観光地になっている。
入り口の門の上には、敵を攻撃する仕掛けの穴が開けられ、城内の道は曲がっていた。今では観光客相手の店が幾つもあり、一番奥にはステンドグラスが美しい教会があった。
内壁と外壁の間を歩いたら、保育所の子ども達が内壁の木陰で遊んでいた。