相変わらず社会現象として取り上げているのだが、
村上春樹の大きな特徴は匿名性、あるいは記号性であらうか。主要人物になるほど匿名性が高くなる。どうでもいい端役にはしっかりと浮世の通り名をつけている。場所についても地名の匿名性に特徴がある。いつでも、どこでも、ということでもなかろうが、通約するとそう言えるだろう。
意図的なものだろうが、普通はそうすると非常に書きにくい。そこを腕力にものを言わせて押し通してしまう。筆力か。
匿名性という言葉は使っていないが、評論家連中も当然この特徴に注目していろいろ言っているようだ。なるほどなというのもあり、へえ、そうかい、というのもあるという具合。
作者の狙いをオイラが僭越ながら予測すると、意図的に読者夫々の解釈にゆだねるため、また物語に多義的な解釈を可能にするためだろう。あるいは重層的な意味をもたして、読者に投げかけるためかな。一度おいしい、二度おいしい、というわけだ。注
その代わりというか、代償行為なのか、モノに対する名前がくどすぎる。これが無駄のない「必然性」なのだろうか。衣装について描写するときにやたらにブランド名をつける。わたしはそういうことに関心がないから本当のブランド名なのか、いい加減につけているのかわからない。いい加減につけているならしゃれっ気があると前に書いた。
男子専科かドレスメーカー的知識をひけらかしているだけなら嫌味以外のなにものでもない。
カクテルやアルコールの名前もカタカタの羅列だ。どんなグラスを使ったかもしっかりといちいち書き加えている。格調高い酒の飲み方を教えているのだろう。これはバーか喫茶店のマスターという経験が生きているにちがいない。
間違えたりすると嫌味できざな客にどやしつけられるからね。真剣勝負だ。バーテンダー稼業もつらい。
それから音楽(レコード)を一つを聞いた、という場面でもやたらに細かく書く。あれは何かなレコードの商品番号というのかしら、レコードの商品名を特定するために、数字と記号の羅列が延々と続く。本で言えばISBNナンバーをかならず付記するようなものだ。不思議なのはこれをやるのはレコードだけなんだね。本の場合は付けなくても気にならないようだ。
これも音楽喫茶のマスターをしていたときに、客のリクエストを処理するときの経験をひけらかしているのかな。
本に対する描写もあるんだが、その時にはISBNナンバーは書いていないんだね。どういうことかな。
とにかく、本にしろ、レコードにしろ講釈が過多だ。もっともこれがいいんだろう。読者には。ベストセラーの一つの条件なんだろう。
それで思い出したが、私の嫌いな「国民的作家」に司馬遼太郎というのがいる。これが一ページ書くと二、三ページ講釈を垂れる。煩わしいだけだし、ホントかなというのが多いのだが、「国民的読者」にはこれがいいところなんだね、きっと。
1Q84のバカ売れも異常以上(超異常)だが、誰もかれもが司馬遼太郎を「いいわぁ」というのは異常ではないのかね。
ところでモノ好きにもカフカを百ページ弱よんだが、1Q84よりツヤがあってはるかにいい。村上春樹のアクメはこの辺で終わっているね。
注:(手法としての匿名性);最初からそのつもりだったかどうかはわからない。最初はおそらく作者個人の何らかの事情で匿名性の高い方法を始めたのだろう。そのうちにそれが意外に作品の効果上も、読者の受けもよかった。それに何回か書いてそのスタイルが手の内に入ってきた。というのが真相かもしれない。意図的に用いるようになったのは後からかもしれないが。