公爵から娘と金をだましとられた工場主はスミスというのだが、これが冒頭死ぬ。この場面はいささかホフマン調だ。話が進むとすでに何日か前に娘が野垂れ死にをしていることが分かる。
そして小説の最後で老人の孫娘ネリーが死ぬ。この少女ネリーが最高に印象的だ。カラマーゾフのコーリャ少年など比較にならぬ。
この小説の語り手は一人称の私で、新進の小説家である。ドストエフスキーの自画像だというが、そこまで感情移入はしていないと見るのが穏当だろう。平均的な新進作家という描写だ。
この語り手の小説家の幼友達ナターシャが例の色仕掛けで金をスミス親子から巻き上げた公爵の息子と恋仲になるというわけだ。
ナターシャも印象的だが、とびきり印象的というわけでもない。ドストの小説によく出てくる気の強い女である。こういう女たちにとって愛するということは相手を支配して思い通りに動かすのと同義である。がゆえに常に現実とのギャップに悩む。
つまりうまくいくときには幸せの絶頂にいると思い込み、相手がフラフラしだすと地獄にいるような焦燥感を味わう。いささか神経症的な女だ。カラマーゾフにも二人ほどいるだろう。
公爵の息子で娘の恋人はアリョーシャ、あとで「白痴」の主人公につながっていくキャラだ。純真無邪気で大人になりきっていない。無責任そのものだが悪意はまったくない。言っていることがその時々で矛盾してもなんとも思わない。
要するにAという美女の前にいけば彼女にメロメロ、1時間後にBというグラマーの前にいけばAのことを忘れて夢中になる。その一時間後にAのところに戻ればAしか目に入らないといった男だ。考えてみると女だとかなりこういうのがいるね。男では珍しい。悪党でそういう男はいるが、アリョーシャは純真無垢でこうなのだから、男では珍しい。
このキャラもそこそこというところだ。少女ネリーとともに圧倒的な存在感をあたえるのが父親のコワルスキー公爵である。「小悪好き」公爵だね。もとは日本語だったかな。
この類型は罪と罰のスヴィドリガイリョフ、悪霊のスタブロ銀次、カラマーゾフのイワンで、みなその仲間である。いわば堕天使ルシファーである。しかし、私は初出のコワルスキー公爵こそ、このキャラ造形の最高傑作と断じる。
なかでも「私」を深夜レストラン、日本でいえば終夜営業の居酒屋か、に連れ込んで得々と自説を披歴するところは他作品の同様の場面に比べて最高だ。罪と罰にしろ、カラマーゾフにしろ、こういう堕天使が居酒屋に相手を連れ込んで自説を披歴する。まったくおなじパターンである。
豊崎某女によればネタの使いまわしだ(彼女が書評で村上春樹に難癖をつけたときの言い草)。いいではないか。使いまわし大いに奨励する。
小説としてはドストのなかでもっとも脂の乗り切った傑作ではないか。通俗小説に弱いわたしはそう思うのであった。
星五つ半。