穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ハメットとチャンドラーの相違点

2010-09-30 18:26:09 | ミステリー書評

順番として両者の相違点を上げなければならない。両者ではっきりと異なるのは警察との関係である。大手探偵社出身のハメットの作品では、私立探偵はあくまでも警察の補助役にとどまる。刑事事件にかかわる犯人は最後に警察にお渡しする。

一方、チャンドラーは依頼人のプライバシーを最優先する。したがって常に警察と緊張関係にある。すべての作品でこの警察との緊張関係が基本の味になっている。刑事に暴行を加えられる場面も多い。ロンググッドバイなど。

日本と異なりアメリカでは警察は私立探偵の免許を取り上げる権限がある(実際には地方の日本でいえば公安委員会のようなところの権限)。

この相違はハメット、チャンドラーのすべての作品を通しての相違である。

チャンドラーでは刑事事件の犯人でも警察に引き渡さないで作品を終える。たとえばロンググッドバイでは自殺させる。それも相当無理強いしてである(心理的圧迫を加えて)。

大いなる眠りでは、犯人の娘を精神異常者の施設に入れさせるように姉に強制する。警察には報告しない。

好みの問題だろうが、ハメットのお上を立てるやりかたはしまらないネ。

今度は個々の作品について。ロンググッドバイとガラスの鍵にかぎると、どちらに不自然な点があるかというとハメットにある。

自分の父親を摘発するやくざ渡世のボーモンと上院議員の娘が駆け落ちするなど、あっと驚く為五郎である。


ハメット「ガラスの鍵」ラスト謎解き

2010-09-30 11:05:24 | ミステリー書評

ミステリー本の帯とか惹句にはぎょっとするものがある。「読者に警告する。この本の3**ページ以降には驚天動地の展開がある。最初に見ないようにご注意申し上げる」てな調子。

これだけで買う気がしなくなる。なめんな、てなもんだが、一般読者はこういう宣伝文句にわくわくしながら財布のひもを緩めるものらしい。おれおれ詐欺だね。

さて、ハードボイルドでも結末はしまらないものが多い。一番多くてだめなのは、それまでテンポのいい文章で進んできたのに結末で急に無味乾燥な説明文が延々と続く。そうかと思うと説明不足で唐突に終わるのも多い。

「ガラスの鍵」のラストはいい。だいたい392ページあたりから始まるのかな。ハメットのラストはあまりいいのはないのだが、ガラスの鍵はいい。

ハメットは自分の作品の中ではガラスの鍵がヒントをあちこちにちりばめていて一番うまくいった作品だといったそうだが、わかる。ハヤカワの訳者はガラスの鍵は一番とっつきにくい作品と言ったが、それは翻訳の問題だろう。原文でも、今度の光文社の新訳でもそんなことはない、と保証する。

このラストがまた、書き忘れたが、チャンドラーのロンググッドバイに酷似する。もちろん構造的にという意味だが。

どちらも会話(尋問、聴取)のやり取りの中で相手を心理的に囲い込んでいくものだが、なかなか快調だ。よく出来ている。長くもなし、短くもなし。

酒に例えれば、ガラスの鍵は一番口当たりのいい、のど越しの感じがなめらかなハメットの作品である。前にも書いたがこの後に執筆した最後の作品、Thin Manも最初の5章を読む限り口当たりの良さは同じようだ。


ハメット「ガラスの鍵」たとえ話

2010-09-30 10:33:04 | ミステリー書評

ハメットは作中にたとえ話を入れるが、下手というか適切でない。妙なものが多い。

たしかマルタの鷹でだったとおもうが、会社員が昼飯に出たときに工事現場で資材が近くに落下した事故で間一髪事故を逃れる。これに人生の真理を感得した男が突然家、家族から蒸発した話をする。なんのことか分からない。何か言おうとしたのだろうが、例が適切でないから妙な感じがするだけだ。

ところが世の中は広いものでたいていの書評屋はこの挿話を素晴らしいという。なにか深遠な人生の哲理を表している寓話というのだ。まいったね。

「ガラスの鍵」にも旧約聖書外典ユディット書(ユデト書)」のことが出てくる。これがみょうちきりんなのだ。まったく違う意味で引用されてボーモンのお説教に使われている。

この誤引用は意図的なのか。つまりボーモンの無知で知ったかぶりの耳学問を挿入して彼のキャラを立たせるためか。民間では訛伝としてそのように使われることがあるのか(日本でもよくあるがね、こういう例が)。

次回: よく出来たラスト謎解き


ハメット「ガラスの鍵」の翻訳

2010-09-30 09:42:59 | ミステリー書評

過去何回か翻訳されているようだが、現在店頭で手に入るのはハヤカワ文庫と今年八月に出た光文社文庫の新訳。この光文社のほうが数段いい。

私か俺か、問題。

ハードボイルの主人公を私とするか俺にするか。悩ましい問題だ。チャンドラーでは過去に田中某氏がオレと訳したらしい。どの作品かにもよろうが、チャンドラーはマーロウものなら、私、のほうがよさそうだ。

ハメットものはどうだろう、迷うね。しかしガラスの鍵では俺が最善のチョイスだろう。光文社はこの俺で押し通している。この辺にもセンスを感じる。

このネッド・ボーモント(ボーモン、フランス系のように見えるからボーモンともいえるようだが)、あまり感心しない、街の顔役上がりの政治家の友人で軍師という役どころ。ばくちを生業としている。新聞は読めるがあまり教養があるとはいえない。

すぐにチンピラのように切れる、しかし反射神経的な判断力はかなりのものだ。この人物が「わたし」というのはしっくりこない。上院議員の前でも、その娘の前でも「俺」で押し通すのは雰囲気が出ている。

ちなみに「金髪の悪魔」サム・スペード(マルタの鷹)も俺のほうがいい。コンチネンタルオプものではどうかな。


ハメット「ガラスの鍵」共通点、光文社文庫を中心に

2010-09-30 09:20:06 | ミステリー書評

ガラスの鍵はチャンドラーの「長いお別れ」にあたる。なぜ

a 最後から二作目である。

チャンドラー プレーバック < ロンググッドバイ

ハメット    Thin Man < ガラスの鍵

b 両作ともに初めて家庭を描いている。勿論クライアントとして家庭の描写は出てくるが、これほどまじかに家庭が描かれているのは両作家とも初めて。だいたい、ハードボイルドでは家庭は描かれない。

長いお別れでは、依頼人でもあるウェイドという夫妻がかなりまじかに描かれている。その後のプレーバックではまた、家庭は描かれなくなる。

ハメットの最後の作品では引退した探偵夫婦という形で家庭描写が定着する。

c ラストの出来が両者作品で最善、自然、しゃれている。

& d 忘れてた。テーマが同じだ。友情。もっともマルタの鷹のラストは友情物、いや違うな、同僚物とでもいうべきか。職業倫理ものだ。友情じゃないな。そうするとハメットの長編で唯一の友情物だ。

チャンドラーのマーロウものでも、ロンググッドバイだけじゃないのかな。友情物は。飲んだくれの元俳優、もとホームレスのテリーとの濃厚辟易するほどの友情がテーマだ。

大いなる眠りに始まって高い窓、かわいい女、湖中の女、さらば愛しき女よ、すべて友情とは関係がなかった。ふたりとも唯一の友情ものを晩年、作品が衰えてくる前の絶頂期に書いているのも妙だね。

ガラスの鍵のほうが相当早く出ているわけだが、チャンドラーもなにか参考にするところがあったのか。人気という点では長いお別れのほうがはるかに上回ったがね。