さて前回はどの辺でリポートしたかな。そうそう200ページあたりまで読んだんだった。一応最後まで読んだのでちょっと追加。
後半は意外に前半に比べて読みやすくなった。ミョウチキリンな比喩もぐっと減ってきた。ただ最後の50ページくらいはまいったね。これは検閲には引っ掛からなかったのかな。しょぼくれたアナーキスト的理屈を述べたているが。ドストエフスキーの罪と罰の女中版みたいだ。藤沢がドストに比肩する作家と言うのではないが、ドストなら大抵しっているから引っ張り出しただけだが。最後の数ページは読ませる。
しかし、新機軸ではあろう。こういう書生っぽい議論を会話でもなく、地の文でもなく、政治パンプレットそのままに小説に押し込むのは新機軸ではあろう。
最後に西村賢太の解説に関連して。シェンケビッチの二人画工を下敷きにしたようなことが書いてある。シェンケビッチとはあのクオヴァディスの作者かいな。二人画工という作品はないような。もっとも内田魯庵の翻案ものというから原題とは違うのかもしれない。
ただ小説の構成と言う観点から言えば、そこらの私小説よりはるかに工夫をしたようだ。それにそのころはまだ珍しかったであろう心理ミステリー、あるいはサスペンス風に話を進めるのは工夫だろう。岡田を自殺に追い込んだ犯人はだれだと、二転、三転させるわけだ。通俗的な興味も持たせる。
解説はコメディカル、パロディカルなテクニックが分からないと本当の良さが分からないと言うがどうもね。そんなに軽妙洒脱なところがないし、これはミョウチキリンな比喩のことを言っているのだろうか。落語的なよさが分からないと理解できないと言うが、どこが落語的なのかな。西村氏とは「落語的」という理解が違うようだ。落語と呼べるものがあったのはせいぜいラジオ時代までだ。西村氏が落語をご存知だとは思えない。
一言で言えば「だらくさい(でよかったかな)」北陸風の落語と言うことだろうか。
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そうそう、この小説には女性の会話がまったく登場しない。話には出てくるが。それと何だったけ。そう、かなりの個所に通俗科学的説明が「無修正」で展開されているのも抵抗のあるところだ。
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