穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カントの「存在者自体」

2017-02-08 20:04:08 | カント

カントを読んでいる。なぜか?読む物が無くなったからである。それだけでは充分な理由にならない。かつ徒然(トゼン)に耐えかねたのである。読書しなくても他に気晴らしがあるあいだは本を読まなくても空腹は感じないのだが、しばらく食わないとやはり活字を食いたくなるらしい。

「カントを読んだことはあるか」と聞かれると熟読したとは言いかねる。「論理実証主義」(これは死語かも知れないが)から入った私としては純粋理性批判がらみでは覗き見ぐらいはしている。つまり認識論がらみの本では大抵カントの純粋理性批判に言及、あるいは同書から引用、もしくは同書を参照している箇所が有る。そんな所を読んで、ああカントとはそういうものかと理解したという程度である。

随分昔だがプロレゴメナは読んだと思うが内容は霞のようになってしまって記憶がはっきりといない。純粋理性批判の拾い読みは、そういえば、したかな。

そうそう、比較的最近「判断力批判」をこのブログで取り上げた。忘れていたよ。これは全部読んだんだが、随分取り留めもない本だな、というのが正直な印象であった。

今読もうとしているのは倫理学というか、道徳、人倫の哲学である。とりあえず「道徳形而上学原論」を取り上げる。これは岩波文庫の訳題であるが、随分いろいろな訳があるようだ。中公クラシックでは「人倫の形而上学の基礎づけ」だし、これは訳本ではないが講談社学術文庫の「カント」では「人倫の形而上学の基礎」である。

ここまでがマクラというか前説である。続く