運命というのは人生の岐路である。そこでこれまでの道をまっすぐ進むつもりが外部的な力で脇にそれる結果になるイベントのことである。つまりそれは外部から来るものであって、これまでのプログラムに組み込まれた自己生成的なコースを変更する。
運命にも大きさがある。カントのカテゴリーで言えば量であり重さがある。大きな運命というのは例えば戦争で命を失うとか家を焼かれて財産を失うというような事である。これは個人の力ではどうしようもない。事後的に将来そういうことが起きない様にしよう、あるいは出来るというのは楽観論である。世の中には楽観論者が多い。
つまり彼らは大きな運命は運命ではないと考えている。彼らは例えば地球温暖化による悲惨な結果は人類の努力と叡智でかえられる、あるいは回避出来ると考えている。もとより鱒添三四郎にはそんな関心はない。
小さな運命というのは日常的に遭遇する。たまたま道路で自動車に轢かれるとか、食中毒になるとかいろいろある。これは相当程度個人の生活態度というか行動規範に注意することで回避することが出来る。たとえば青信号が点滅し始めたら絶対に横断歩道を渡らないとか、いかにも衛生状態の悪そうな店では食事をしないとかいう用心をすればいいわけである。
だから大きな運命は考えてもあまり意味がないし、小さな運命は日常の用心で相当程度回避出来るから気に病むことはない。問題はその中間である。運命の厄介なことはいきなり襲ってくることである。襲ってくる前に視界に入ることはまずない。
しかも人生に与える影響は決定的な場合が多いのである。個人の人生にとっては決定的と言える。鱒添三四郎にとっては、十三歳の夏のイベントからまず始めなければならない。運命の一撃を受けるとだれでも「何故?」と間の抜けた質問をする。しかし分からない。分からないから運命というのである。
それ以前にもそのようなイベントは何回かあっただろう。複雑な家庭環境では当然予想されることである。しかし、それ等は茫茫として忘却の海に沈んでいる。サルベージするにしても一番困難な問題から始めるべきではないだろう。その夏のこともかなりの部分が砂に埋まってしまっている。百条委員会を設置するにしても出席出来る証人も少ない。それは三四郎の航路を90度以上変えてしまった非常に不可解な出来事だった。しかしこの縺れた糸をなんとかして辿ってみなければならない。ほどいてみなければならない。
実存主義者はそんなことは考えないらしい。ポンと発射台から出てしまったのだからあとは自分で軌道を考えるというのが実存主義らしい。その割には、彼らは大きな運命には拘泥する。つまり実存主義者には社会主義者が多い。すなわち大きな運命は変えられると思っている訳である。どうも矛盾があるようである。