お待たせしました。連載「破片」に戻ります。
うりざね顔の美女が弾かれたように、何かに気が付いて突然立ち上がった。皆がびっくりしたような表情で彼女を見上げたが、彼女は無言でレジの後ろの店員たちの私物が置いてあるスペースに行くと、大きなバッグの中をかき回していたが、黒い表紙の厚い本を取り出して戻ってきた。
「なんだい、それは?」
「うん、、」というと彼女は終わりのほうのページをめくっていたが、「あったわ、Dinge an sich だわね。Things in themselvessだってさ」
「いったいなんのことだい」
「さっき、カントの物自体の物は単数形か複数かって話していたじゃない」とはるか昔にだれかが話題にして、とっくの昔に別の話題に移っていたのでみんなはポカンとした。
「何ですか、それは」と彼女が手にしている本を指さして、まず聞いたのはCCである。
「カントの純粋理性批判の英訳、ペンギンブックスよ。ひょっとしたら索引に出ていないかな、と思ってみたわけ」
「欧米の哲学書にはまず索引のないのはないからな。まして翻訳書なら」と立花がつぶやいた。
「Dingeと複数形だから物事とか事柄という意味よね」と彼女は下駄顔の顔を見た。
「そうか、それでハーマンが東インド会社を扱ったんだな」と立花は気が付いた。
「そすうると、安倍前内閣も事柄と言うか政治的事象だから、実在論者の哲学的探究の対象になるわけだね」
「そうだわね、なんでも対象になるみたいね」
「しかし、安倍内閣が政治学や歴史学あるいは外交論の対象になるのは分かるが、哲学的対象になるというのはどういうことだい。思弁的にニチャニチャやろうということかい」とエッグヘッドがもっともな疑問を口にした。
「そうさな、ハーマンの本でも読んでみるか」と立花が応じた。
「しかし、なんだね」と割り込んだのは下駄顔である。「これまでの話は、つまり哲学史ではさっき話していた相関主義と言うのは、人間の認識は知覚を通して人間の内部に表象なり観念が出来るというのだろう。ものというのは知覚を通して知覚を刺激をして内部に入ってくるというのだろうか。そうすると、物事や事象が知覚の経路を通して入ってくるというのは大分議論が逸れているのではないか」
「そうですね、机やリンゴ(哲学者お得意の例)が知覚されるのと、安倍政権が意識に捉えられるというか何というかは、まったく違うね。それをおなじ括りにいれて論じるのは論理の破綻じゃないか」
「そのとおりです」
「ようするにだな、物自体というのは明治時代以来一度も誰も疑問に思わなかった誤訳ということだな」
「幕末からかもしれませんよ。西周なんて江戸時代にカントを読んでいたかもしれませんからね」
「そうすると、物自体ゴミ箱説を復活するか。要するに訳の分からない、はみ出したものを放り込んでおくファイルにつけたラベルと考えれば、カントもあまり厳密には考えなかったのだろう」