「どうだい、読んだかい」と立花さんが第九に問いかけた。
「いやどうも大変なものですな」と第九は応じた。精神分析の大家ユングがハイデガーのことを評して狂人と言ったと聞いたことがあるが、この文章は難物ですね。ユンクはハイデガーの『存在と時間』時代つまり前期ハイデガー哲学のことをいったのか、後期の哲学のことをそういったのか、いや彼の全著作をそう評したのかもしれませんが、立花さんは存在と時間はもちろん読まれているのでしょう」
「存在と時間も何というか厄介な本だが、狂気の書とまではいえないね、ユンクはいわゆる後期哲学のことを言っているのかもしれない。僕はその本を読んでいないから何とも言えないが」
相変わらずスタッグ・カフェ「ダウンタウン」の客足は戻ってこない。昼下がりの閑散とした店内にはいつものアウトサイダー集団が屯しているだけである。
絶望とは死に至る病だとキルケゴールが言ったとか、言わなかったとか。本当かね、と第九は思うのであった。彼の切実な病は目下のところ退屈である。退屈は高齢者にとっては痴呆にいたる病である。まだ体内にガソリンが残っている壮年者にとっては精神と言うエンジンの空焚きの危険性であり、つまり自傷、いや自焼の危険がある。
てなわけで彼はパチプロの立花さんに相談したのである。立花さんはもと精神科医であり、もと哲学専攻大学生である。精神と言うエンジンに食わせるものが途絶した第九は立花さんに意見を求めた。
「そうねえ、そういう時には禅の公案でも解くといいんだが」
「お寺に行くのも面倒くさいですね。それになんだか剣呑だ。本当に精神がおかしくなりそうだ」
「言えてるね、それじゃね、難しい本でも読んでみたら。何を言っているんだか分からない本とにらめっこしていると時間がつぶれる」
「なるほど、どんな本がいいですかね」
「そうだね、ハイデガーの『技術とは何だろうか』なんかどうだ。いや大した理由はないよ、ふと思いついただけだ」と無責任なことを言った。
「翻訳があるんですか」
「うん、講談社学術文庫にある。読んではいないんだが、本屋で訳者後書きを見ただけだ。それによると彼の後期哲学の代表的な論文(講演)だそうだ。ここで前に新実在論のことが話題になっただろう。そこでグレアム・ハーマンというのがしきりとハイデガーの道具論を勉強したと言っているそうだ。道具論とはなんだ、存在と時間にそんなテーマがあったかな、と考えたが思い出せない。それで書店で偶然この本を見かけて道具論というのは技術論のことかな、と引っこ抜いて手っ取り早く後書きで見当をつけたら、どうも当たりらしいんだ。ハイデガーの後期哲学なんだそうだ。それで今頭に浮かんだだけさ。薄っぺらな本だから読んでみたら」と言われて第九は720円(税抜き)で贖ったのである。