「思い出したんだが」と立花は愁い顔の長南さんの不遜にも威嚇的に突き上げているブレストのかたまりを凝視しながら聞いた。「あなたにこの間見せてもらったグレアム・ハーマンね、思弁的実在論入門と言う本の中で、彼はハイデガーの道具論を一生懸命に勉強したというんだが『四方対象』とか妙なことを書いていた。何のことか分からない。なにかそんな言葉がハイデガーの本に出ていましたか」と第九に聞いた。
「さあてね」と第九は一呼吸おいた。「・・・そういえば四方界ということが書いてありました。天、地、神的なものたち、人間たちの四つで世界が出来ているそうですよ」
「へえ、世界がね、世界と言うのは存在とは違うんですか」
「どうですか、はっきりしませんね」
「日本では三才といって天地人というがね、天というのは神と言う概念に近いようだが、ハイデガーの場合はどうなんですか」
第九は考え込んでいたが、「神的な意味は無いようですね、太陽とか、月とか、星と言うことらしい。私も読んでいて妙に思ったんだが、神という概念はどこにもないみたいですね。神的なものというのがあるが、これはどうもキリスト教でいう精霊のようなつもりらしい」
「たしかに『神的なものたち』と複数になっているから唯一神としての神様じゃないわな。ハイデガーは多神論者ではないんだろう?」
「そうですかね」
「かといって、キリスト教でもない?」
「どうでしょうね、かの地ではキリスト教との距離感をはっきり表明することは哲学者にとっても危険でしょうからね。曖昧にしている」
「ところでその四方界にどうやって説明を持っていくんですか。いきなり頭ごなしにどやしつけるんですか」
「いや、彼独特の方法で持って回った説明でそこへ持っていくんですよ。翻訳者の説明によると、なんでも現象学的アプローチらしい。わたしの理解するところではトンチ的、しりとり的強引さですね」
トンチ的と聞いて憂い顔の美女は膝を乗り出した。
彼女の顔を見ながら「読んだことははっきりと覚えていないんだが、こういう風なんですよ」と第九は始めた。「現象学者らしく卑近なものを例にとりあげる。この場合は瓶です」
「そりゃよかった」と立花が安堵したようにため息を吐いた。
「は?」
「いやさ、またリンゴや机が出てくるかと思ったのさ」と彼は説明した。「とすると、『瓶とは何じゃらほい』と始めるわけですな。謹聴謹聴」
第九は閉口して「正確に覚えているわけではありませんよ」とことわった。
「ここに瓶がある」