穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

失われし時を求めて 7 

2022-06-27 06:35:21 | 小説みたいなもの

 なぜ今頃、西田幾多郎に手を出したか。遅ればせながらベルクソンを調べたからである。なぜベルクソンか、プルーストの失われた時を求めて、を齧ったからである。なぜ、もういいよ、やめろと言われそうだが、Buried Giant もとえ、埋もれた記憶についてチト書いてみたいと思ったからである。それで参考書をピックアップしていると上記のようなメニューになったというわけである。
 ところでプルーストはベルクソンと遠い親戚だったらしい。初めて知ったのだが。プルーストの略年譜によると二十一歳の時にベルクソンの結婚式で付き添い役を務めた。遠縁にあたるらしいが、確認できなかった。ベルクソンは十二歳年上だがほぼ同時代人だ。おたがいの著書に相互参照はないようだが、全部読んでいないので確認できない。
 いずれも記憶にこだわるところは共通している。ベルクソンは1927年にノーベル文学賞を受賞している。彼は哲学関係の論文以外に小説や詩は発表していないようだが、ボブ・ジュランだっけ、歌うたいで文学作品も書いていないのに文学賞を貰っている例もある。もっともプルーストは1922年に死亡しているのでいずれにしてもベルクソンかプルーストかという選択はノーベル賞選考委員たちにはなかったが。
 ベルクソンの授賞理由は明晰な文章云々だったらしいが、読んでみると全く混乱しているような印象だけどね。もっとも日本語の翻訳の印象だが。彼は父がユダヤ系フランス人で母親はイギリス人である。そのせいか、彼の英文のほうは明晰なようだ。これは彼が英文で書いたという「物質と記憶」の序文の日本語訳を読んだ印象である。
 カズオ・イシグロの小説ではないが、ベルクソンは二十世紀を通じてburied giantという感じだ。
二十世紀の後半になって若干の再評価の動きがあるようだが、フランスでも忘れられた存在、傍系の哲学者というところだが、ハチャメチャなところが読んでみると面白い。
 カントやフッサール、ハイデガーの系列ではなくてヘーゲルとアルゴリズムが似ていると言ったら言い過ぎかな。主観としても彼岸としても超越論的存在を認めないこと、二元論から一元論に流れ込むところ、時の流れの中ですべては潜勢力として存在し続けるところ、などヘーゲルの発想と類似性がある。
 ベルクソンにはミナ・ベルクソンあらためモイナ・メイザースと言う、すごい超能力者の妹がいた。「猫使いの黒魔術師」としてダイアン・フォーチュンに恐れられた。イギリスのオカルト結社「黄金の夜明け」のメンバーである。黄金の夜明け集団のリーダーであるメイザースと結婚した。
 ダイアン・フォーチュンの「心霊的自己防衛」はその辺の心霊戦争の経緯から書かれたらしい。フォーチュンはいまでも「精神世界フリーク」の女性には人気のある作家である。書店の精神世界コーナーには今でも著書が置いてある。
 そういうわけで、埋もれた記憶という地雷を掘り起こすのにはまだ時間がかかりそうだ。現在有力な手掛かりは禅の公案で夏目漱石を悩ませた『父母未生以前の本性の面目は如何』だったかな、あたりが気になっている。