穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ムイシュキン公爵は主人公ではない3

2013-06-23 10:23:11 | 書評
白痴でなければ「無条件に美しい人」になれないのだろうか。そんな理屈は成り立たない。

白痴の特徴はなんだろう。それはいくつもあるだろうが、一つは「人を警戒させない」ということだ。

もっとも人に警戒心を起こさせる白痴もいるだろう。凶暴性や攻撃性を持った精神薄弱者もいるからね。

しかし、一般論として白痴は子供や赤ん坊が人に警戒心を抱かせないように、相手の警戒心を武装解除する、つまり本音を出させる。

この特徴をもった人物を対置すると、小説の登場人物に自分の複雑な感情、心理、考え方を警戒心なしに発露させることが出来る。意識の作家、イデーの作家であるドストエフスキーにとって登場人物のイデーを直裁に表現させることは重要なことだ。普通人に対しては矛盾を指摘されるのを警戒して隠す、本音、あるいはどんな人物にもある多面的な意識を自由に表白させることが出来る。とくにナスターシャの意識の表現にこの点は著しい。ロゴージンに対しても同様である。

レベージェフの別荘に押し掛けてきた無頼漢、ゆすり屋の一団を猫のようにおとなしくさせるのもこの効果である。


完全な精神的機能を持った「白痴」を対置することでこの目的は達成できる。作家という者は書いているうちにどんどん重心が移動して行くものだ。特に潜在意識は活発に活動している。以上がドストがムイシュキンを操作子として活用しているという理由である(ドストが意識的に行っていたかどうかは不明である)。

また、記述者(特に難しい意識の記述者)としてこの小説でムイシュキン公爵が必須の操作子である理由である。