分野によらず「入門書」を好む。ただし、一流の研究者の書いた物に限る。専門分野を門外漢に入門書として紹介するのは本当の、高い知性を必要とする。研究馬鹿には出来ない。一流の研究者でこの才能が備わっている人はまれである。
一般人に説得力のある文章は、著者のその分野の本質的な理解をはかるバロメーターになる。専門書では長たらしい記述でいかようにも誤摩化したり、煙に巻くことが出来るが入門書ではそうはいかない。勢い、著者の能力があらわになる。
哲学には有名な人物の書いた入門書は少ない。このあいだ、新潮文庫でヤスパースの「哲学入門」を買った。この人は書店ワイズには最近人気がないが一時はハイデガーと同じくらい読まれたらしい。
この書も決してクリアカットとは言えないが結構読める。ヤスパースの主著はそのものズバリの「哲学」というらしい。この書物の第二部は中公クラシックで翻訳されている。たしか、第一部が「科学的世界定位」、第二部が「実存開明」、そして第三部が「形而上学」だったと記憶している。
「哲学入門」は「哲学」の第一部、第三部とだぶるようである(つぶさに彼の著書を通読した訳ではないのでツカミの印象だが)。わたしの印象では哲学の島をなんとか確保しようと四苦八苦した思想経歴を示したものである。
すなわち「哲学」第一部の内容を受けて科学的認識の限界を明確にし、まず哲学シマの確保を図る。そして後半では宗教の分野を犯し、哲学の存在理由を主張する。前半は諸々の二十世紀の哲学者が手を変えしなを変えて試みて来たこととだぶるだろう。
後半の主張はポール・リクールの主張とだぶるところがあると感じたがどうであろうか。
ハイデガーは現存在分析で「存在と時間」を中断して実存分析には踏み込まなかった。ヤスパースは勇敢にも実存開明(分析)に踏み込んだが、どうも心理学の一種にしか見えないのだが。
ハイデガーは「存在」を神とは言わないが、実質神と同じことだとはこのブログでも前に書いた。ヤスパースはハッキリと存在は神であるとしている。要するに用心深いハイデガーが辛くも踏みとどまった一線をヤスパースは「勇敢」に超えた。うまく超えられたかどうかは何とも言えない。