穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

演奏家としての村上春樹

2016-12-11 21:19:29 | 村上春樹

創作が作曲とすると翻訳は演奏のようなものだろう。同じ作曲家の曲でも演奏家、指揮者によって無数のバージョンが出来る。カラヤンのベートーベンと小沢征爾のベートーベンは違う。

翻訳の場合はバージョンとかバリエイションの違いの他に、明らかに質的に原作に優ってくる場合がある。よく言われる様に森鴎外が翻訳すると平凡な原作が見違える様に魅力的になることがある。

村上春樹を森鴎外に例える訳ではないが、少なくとも「村上バージョン」というものはある。彼の翻訳はあまり読んだことはないが、それでも多少読んだ範囲では特にチャンドラー作品の演奏にはすぐれたものがある。 

チャンドラーとは相性がいいようだ。彼(村上)の創作の文体とはかなり違うと思うのだが(意識的に違えているようにみえる)翻訳の文章は私の好みに合う。

「プレイバック」を三分の一ほど読んだが良い演奏だと思う。

時々変な言葉も教えてくれる。プレイバックでは早々に(10ページ)で「ちゃらい」なんて言葉が出てくる。ずべ公が使う用語なのかな、それとも一般的な言葉で私が知らないだけなのか。広辞苑には「ちゃらかす」という言葉が出ているがこれの短縮形なのかな。活用形なのかな。

 


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