穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

154:ストリッパーとしてのハイデガー 

2020-11-17 08:23:07 | 破片

 ハイデガーはストリッパーである。Stripteaserではない。剥ぐ人である。

 若きユダヤ人女子学生ハンナ・アーレントも剥いでしまった。もちろん彼はそんな言葉を使わない。彼の言葉で言えば、伏蔵性から不伏蔵性にもたらすのである。あるいは存在を現前にもたらす、あるいは現わすのである。開蔵である。覆いを取るのである。ギリシャ語でいえばポイエーシスである。ポイエーシスはテクネーつまり技術である。

 剥ぐやり方は三つある。一つは技術であり、アレテー(真理)である。つまり、現代の技術に限ってだが、あるいは現代の技術に特徴的だが、自然科学の発見、知見を利用する。

 また、芸術家も剥ぐ人である。存在の神秘と「驚異」をこちらへともたらす人種である。存在の神秘と「脅威」をもたらすのはラヴクラウトである。

 第三番目は自然(ピュシュス)である。種から植物が成長して花を現前にもたらす。

 さて、彼は論文の最後で技術の危機を芸術が救うと書いている。彼はヘルダーリンの詩を引用する。

「しかし、危険のあるところ

救うものもまた育つ」

 残念ながら、どうやって、ということは書いていない。ヘルダーリンが言うのだから間違いないだろうと言うのである。

 この講演のテーマは「技術時代の芸術」という。したがって技術と芸術を哲学的三題噺で纏めたかったのだが、舌足らずの尻切れトンボになっている。この講演ではノーベル賞受賞者で量子力学の第一人者ハイゼンベルグも講演している。哲学者も講演したのである。もちろん各種芸術家の名を連ねているのであろう。

 



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