穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

153:三(承前):ハイデガー技術論の先見性?

2020-11-14 13:31:36 | 破片

「技術とは何か」という講演論文は定義明示なし、前提明示なし無し、テーマの明確化なし、順序無しの叙述で解説するとなると逐語逐条解説となる。原文の何倍もの分量が必要となる。したがって逐条的な批評はできない。思いつくままにコチラも書いている。

 まず対象は何か、からいこう。そんなの決まっているじゃないか、技術だろうというかもしれないが、これも読んでいて、はっきりとしてこない。大分読み進んだところでこれは現代技術を論じているらしいと分かってくる。いやさ、電力開発や農業の何というのかな、大規模化と言うか、産業化というか、そんなことにも触れているから近代以降、近代後期あたりからの産業技術が対象らしいと見当をつけた。

 とすると、古代から現代までの技術一般を論じているものではない。もっとも古代哲学を頻繁に援用してはいるが。対象としては論じていない。普通何か論じる時で対象が歴史的地理的に広大な場合は対象を明示するのが作法だと思うがね。

 ハイデガーは「対象」と「対象の本質」は違うという。ご親切に。そんなことは分かっていますよ。そんなことを話しているのではない。此の講演は1953年に行われたそうだ。小生がどこかで1950年と言ったかもしれない。そうだったら1953年と訂正します。

 ある種、哲学と言うより、時事的な問題意識の濃い文章である。したがって、第二次大戦で出現した原子爆弾、原子力技術が関心の対象である。まだ原子力の平和利用などと言う考え方が一般的ではなかった時代である。あと二つのハイデガーの関心は電力産業であり、はっきりと同定していないが、現代的な産業化した農業問題らしいのだ。

 いすれも細分化した工程を組み合わせて大規模な産業化を図る、ようするに現代の大企業かかかわる産業の「哲学的」描写といったらよかろう。

 お得意の造語で用象というのがある。対象ではないのだ。膨大な工程に分かれた産業で各工程での半製品の受け渡しの段取りで材料の分量の見当をつけて事前に過不足なく計画生産し配置するモノを用象というのだ。要するに工程工程でみつもる在庫のことである。ヨウショウと新語を使わないとハイデガーは気が済まないのである。これは企投と同じだね。英語で言えばプロジェクションだ。

 ようするに、 現在のアマゾンの倉庫にはける見込みで取り揃えている書籍の在庫は、在庫でもなく、対象でもなく、H氏によれば「用象」なのである、といえば分かりやすいかな。

 現代産業の企業規模はほおっておけば恐竜と同じでどんどん際限なく大きくなる。極大化が習性である、放っておけばだが。したがって原料である資源の収奪に血道をあげる。ほおっておけば、と言うのは法規制の網をかけない限りということである。あるいは住民の反対運動で頓挫しなければ、ということだ。ようするに自然資源の収奪的な利用と言うこと。それをハイデガーは「総狩り立て体制」と粋がって訛るのだ。

 収奪的利用は環境破壊、環境汚染、地球温暖化をもたらすが、その時代(1953年)にはそんな社会問題はなかった。先見性を誇る(一部ハイデガー哲学の追随者が持ち上げる)ハイデガーもこの問題は触れていない。あくまでも、新聞記事フォローの時評にとどまる。

 この論文に結論はない。もともと最初から順を追って読む必要もない。最後の二、三ページを最初に読むほうがいいのかもしれない。

 次回は最後から逆さ読みをしてみよう。

 



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