「相関主義」というラベリングの著作権はメイヤスーにあるらしい。そういう考え方の実態は少なくともバークリーにまでさかのぼるわけでメイヤスーの発明ではない。ラベリングの商標特許件はどうもメイヤスーが持っているらしい。哲学の歴史に詳しくない小生には自信がないが。
相関主義というのは、認識は主体と客体ペアである、という考えである。対象は人間の知覚を通してしか理解、認識できないという至極常識的な考えである。認識を写真とするとカメラの性能を通してしか対象の写真は撮れないというごく自然な考え方であるが、哲学者と言うひねくれ集団の手にかかるとこれがとんでもない暴れ方をする。
グレアム・ハーマンがまとめたメイヤスー紹介によると、彼は認識にかんする考え方を四つに分類している。そのスペクトラムは
1:素朴実在論、認識外部の世界を信じる。常識的。それを認識できるか、たぶんいつかは出来るという楽観主義。
2:弱い相関主義、カントの理論、外部の実在はあるが、認識できない。考えることは出来る。
3:強い相関主義、物自体には絶対アクセス出来ない。
4:思弁的観念論、物自体というものはない。バークリーか
である。
思弁的観念論は今のところピンとこないが、下の三つは実在論ではない、あるいは条件付き実在論らしい。弱い相関主義はカントのそれで、認識は人間の知覚を通した情報を人間固有の処理機構で料理したもので外部の物自体は人間には認識できない。しかし、この「しかし」が大切なのだが、物自体について思考することは出来る。小生の言葉でいえば物自体を思考して認識しようとするのは人間のゴウ(業)である。これは赤ん坊の執拗な「なぜ、なぜ」の無限連鎖と同じである。
強い相関主義は人間の認識の外部に物自体というか実在はあるが人間には絶対認識できないという考え方である。
思弁的観念論と言うのは、物自体はないという考えらしい。そうするとバークリーのような考え方か。
さて、メイヤスーの主張であるが、これがはっきりとしない。これがお断りしたように、読みながら書評であるから、そのうちに出てくるのかもしれない。ハーマンによると、最初は弱い相関主義者だったが、その後、身を翻して強い相関論になった。しかし、強い相関論は認識外部の、つまり主体、客体の相関主義的循環のそとには人間は出られないというのだが、その頑丈な相関主義の網の目を、サーカスの檻からの脱出のようにすり抜けたという。どうすり抜けたのだろうか。
続く