穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

139:コピペの二義 

2020-09-18 09:53:14 | 破片

「そんなに、コピペが悪いならなぜ多用するんですか」とCCが不思議そうな表情を見せた。

「ふむ」というと「コピペに二つの場合があってね。いつか世間やテレビでコピペだ、コピペだとまるで詐欺のように相手を袋叩きにして騒いだことがあるでしょう」

「ありましたね」

「あの場合のコピー・アンンド・ペーストは他人の文章を自分の文章かのように、装うことでね。これは小説家なんかの一部からは非常に卑劣なこととして非難される」

「どうしてですか」

「自分のオマンマの食い上げになるからでしょう。すくなくとも、やられたほうはそう思う。今話しているのはそうではない。他人の文章を引用句に入れて出典を明らかにすることです」

「そうすると、オリジナルの作者から文句が出ない」

「それもあるし、哲学などの人文科学系では、こういう偉い人もこう書いていますよ、あるいはこういっているけど私は認めない、という文脈で使われる。ま、出典を明らかにしているから正直だということでしょう」

「さっき、学生のようだと言ったのは」

「まだ一家をなしていない学生なんかは、自分はこういう哲学者の所説もちゃんと読んで勉強していますよ、とアピールしている。論文を読む指導教授などに対してね」

「だから自分の説のように白っトボケるよりは正直で可愛らしいということですか」

「そうだね、しかし一家をなしているようなつもりでいる哲学者がこういうコピペ満載、コピペに終始した文章を書くのは品格にかけるようだ。読みにくいことは勿論だがね」

 

 



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