「ところであなたは何を書いているんでしたっけ」と老人がTの顔を見た。
「はあ?私は何も書いていませんが」とTは戸惑ったように答えた。
「そうでしたっけ、なにか書いているという話ではなかったですか」
「ああ、それは私の友人がノンフィクションを書いているというお話をしましたが」
「そうか、お友達の話でしたね。失礼しました。あなたはなにもお書きにならないのですか」
Tは頷いた。「彼は通り魔というか、理由なき大量殺人について書く予定にしているようです」
「理由なき殺人と言うと、どういうことですか」
「動機がないというんですかね。まれにそうとしか思えない事件があるでしょう」
「なるほど、それで津山の30人殺しを調べていたんですね」
「ええ、しかしあなたのお話だと、あれは十分な理由のある話だそうで。これは彼にも話してやらないと。本人は理由なき殺戮と思い込んで調べるつもりのようだから」
「まあ、理由はあるんだが、八つ当たり的なところもあるし、ターゲットが拡散しているところもあるから調べるのはいいんじゃないですか」
「どういうことですか。拡散しているというのは」
「最初は犯人はあいつが憎いとか意地悪されたとかで復讐しようとしていたのだが、だんだん考えていくと、あいつも間接的に関係しているんじゃないかとか、こいつも裏で扇動しているだろうとか、疑念が拡散して結局全員を対象に殺人を実行するようになったんですよ。思いつめていくと全員から村八分にされた、と思うようになった。つまり個人が対象ではなくて集団が対象になったらしい」
「そういうことですか、なるほどね」
彼が老人の話を反芻している間二人とも沈黙していた。
「ところであなたの最初のミステリーの懸賞応募作品ですが、どんなトリックだったんですか。いや私がアイデアを借用しようというのではありませんがね」
「いやいや全然かまいませんよ。もし今後あなたがなにか書くなら大いに利用してください。大体世間で盗作だとか著作権の侵害だと騒ぐのは滑稽でグロテスクですよ。自分のアイデアとか文章を模倣された人はおおいに得意になるべきなのに、飯の種を奪われたなどと騒ぐのはみっともない」
「お説の通りですね」
老人はコップの水で喉を潤した。「動機無き殺人と言う話がありましたが、私の作品もそういうものですよ」
「へえ」
「間違いの殺人とでもいうのかな。シェイクスピアにも似たような作品があったかもしれない。復讐の話なんだが、別人を復讐の対象と勘違いして殺してしまう。犯人も最後まで別人を殺したと思わないという作品でね。まあ工夫と言えばどうして間違えたか、という絵解きですね」