さて、「燃え尽きた地図」「他人の顔」に続いて「砂の女」を読みましたので纏めてみましょう。
燃え尽きた地図はほとんど記憶に残ってはいないのですが。「他人の顔」はここに短評をのせたせいか、いくらか記憶にひっかかっています。そういうわけで「砂の女」も一筆書いておけばあとで思い出すよすがになるかもしれません。
この三冊で「感銘を受けた」作品は正直申し上げてありません。しかし、「記憶に引っかかっている」というのが類似の表現だとするならば、砂の女、他人の顔、燃え尽きた地図の順となります。もっともこれは読んだ順に新しいほうが記憶に残っているという当たり前のことかもしれません。
しかし、そうとばかりも言えないようです。読者に与えるまとまりというかインパクトもこの順になります。海外でもフランスで賞をもらったのは砂の女のようですし。
閉口するのは作品の中でやたらと「形而上学風のジャーゴン」を挿入することです。頭の悪い筆者はその必然性と言うか「おさまり」が理解できません。安部公房はカフカの影響を受けたと言われますが、カフカも似たような不条理性、非現実的な状況を扱っていますが、形而上学的なジャーゴンは一切ありません。そのほうがインパクトも強くなっているのではないでしょうか。 もっとも、安部のこれらの作品から形而上学的饒舌を取り除いたら半分のページ数になるかもしれません。
この文庫本でもドナルド・キーンの解説がついていますが、「むしろ推理小説として読んだほうがいいと思う」とありますが推理小説ではありませんね。オースターの初期作的なところはありますが。
それからキーンは表現が写実的になったと書いていますが、これは他の二作に比べる妥当でしょう。また「比喩の豊富さと正確さであろう」と書く。これは他の二作に対する比較の意味では妥当でしょう。
追記:
安部公房もドストエフスキーの影響を受けたと言われる。もっとも日本の「純文学」作家のほとんどがそう言うのだが。ドストも形而上学的言説が豊饒な作家という一般的な受け止めがあるが、ドストの場合は読むに堪える。 それに言われているほど多くは無い。あっても工夫がある。
かかる饒舌が多いという印象があるのは、カラマーゾフの兄弟とか悪霊や未成年だろうが、いずれも会話の中で行われるから理解しやすい。地の文でやられるので有名なのは「地下室の手記」だろうが、その中で使われる形而上学的な饒舌は適切な例示に伴われている。安部のごとくベタベタと地の文で長々と書かれると辟易する。日本の読者評論家諸君は辛抱強いね。