「6・41 それは世界の外になければならない」
言うまでもないがこれは近代以降の自然科学のパラダイムではない。世界の外になにかがあるというのは、オカルト信者である。また世界の外にある(超越的存在)は神であるとするのが一神教(キリスト教やユダヤ教)である。世界の外にあるからもちろん論理が通用する世界ではない。だがあるとWは「信じて」いるらしい。あるいは自分が信じていることに気が付いていない。
論理哲学論考はジャーゴンの集積以外の何物でもないので論理的に整然と説明しにくいが、
「6・43 それゆえ(反問す、なにゆえ?)倫理学の命題も存在しえない」。これも舌足らずな表現だが、Wの言う「世界には存在しない」ということだろう。
「命題は倫理というより高い次元を表現できない」。含意するところは「世界」の外(上)に倫理という第二の世界があるというわけで言葉では表現できないと言いたいのだろう。
であるがゆえに「倫理は超越論的である 6・42)
「倫理と美は一つである。6・41」。意味不明だが命題で表現できる世界にないという共通点があるといいたいのだろう。倫理と美が一つであるわけがない。
また、どこかでそういうことは表現できないから示せるだけだという。まあ、それはいい。
しかし、それは言語ではかたれない、示せないというなら間違いだ。
言語表現というのはWの言う論理的言語だけではない。そういうことをほのめかす、例えをとおして示唆するのも言語の役割である。Wは晩年日常言語だとかなんとか言い出したらしいがこんなことは、最初から気づいていなければいけない。
「6.432 神は世界の内には姿を現さない」これは三位一体、キリストを否定しているのかな。とにかくこの辺の文章は雑ぱくでとりとめがない文章が続くが。
付け足しのように唐突に見える6.43は若き日にショウペンハウアーに魅せられたWの反省の弁かもしれない。
とにかく、Wがどうして6.4以降を書いたのかよく分からない印象です。わざわざ書かなくてもいいのに。