150頁ほど読んだがほとんどキャッチャーの話らしい。フラニーについての村上春樹氏の褒め方に違和感を覚えてもう少し詳しく解説を読んでみたいと買ったのだが早とちりだったようである。
で、キャッチャーのはなし。村上春樹氏と柴田元幸氏の対談が中心のようだ。不審なのはキャッチャー(以下C)が1950年代の若者を取り巻く状況を反映しているというところだ。この主張は本書のベースになっているし、相当部分を占めている。1940年代でもない、1960年代でもない、という。
16歳のミスター・ホールデン(16歳でミスターというのは変だが、当該書籍に倣う)の突っ張りは1950年代のアメリカの「転換期の」閉塞状況を反映している、という説(私はそうとりました)。
私は主人公の突っ張りには時代も何も関係ないと思います。でなければ今読む意味も無い訳だ。16歳で生意気な知恵のつき始めて戸惑う若者なら何時の時代でもああいうのがいる。それをうまく表現しているというだけだ。
ところで、サリンジャーの原書がないという話をしたが、別の書店にいったら、安っぽい活字の細かい、粗悪な紙に印刷された(いかにもフォトシュタットからおこしたような)小型本がありました。4作とも平積みでやんした。前回の記事を補足しておきます。
Cが時代を反映しているのではなく(時代の産物ではなく)て、1950年代の若者の読者にアピールしやすかったという表現なら分かります。真偽は判断出来ませんが、文章としてはスジがとおる。
両氏の主張の背景にはアメリカ文壇(批評界)で確立しているそういう見方があり、それにそった意見とは思いますが、それも含めて理解しにくいところです。
この書は村上氏が主張して、柴田氏が聞き役という印象です。
注:サリンジャー戦記 文春新書330 村上春樹・柴田元幸