穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

私小説とは

2022-05-18 09:12:06 | 書評

 小林秀雄の私小説論に関連してだが、まず何と読むか。シショウセツかワタクシショウセツか。私小説を付加価値向上の営業用の手段とする作家、人物は大体ワタクシショウセツと気取るようだ。このように、読みかた一つをとっても混乱している。その定義と言うか範囲と言うかの議論になると大分前に当ブログでも触れたが収拾がつかないほどバラバラである。
 まず私小説は我が国固有のジャンルだという一派がある。そうかと思うと外国特にフランスなどにもあるという主張がある。小林はこの派のようである。十九世紀自然主義小説の生き詰まりからヨーロッパでも日本でも私小説、心境小説が出てきたと小林は言う。この是非はしばらくおく。
 また、だれが私小説作家だったか。過去形で書いたが、日本ではいまでも私小説を売りにする作家が少数残存する。もっとも先日西村賢太氏が死去していなくなったかな。
 誰が私小説作家かという分類は人(評論家)によってばらばらである。ある人によれば日本の小説家のほとんどは私小説作家のリストに載る。所詮この混乱は「私小説とはなにか」という定義なしに議論が進められるから起きてくる。小林の論でも定義や説明は一切ない。また、小林の文章では誰が私小説作家などかが明確でない。なにしろこの論が書かれた昭和十年以前の作家はほとんど私小説作家になるようだ。
 この評論には多数の、ほとんどの日本の作家が出てくるがいずれも一行、二行で記述を済ましているからどういう評価をしているかが曖昧である。彼によると菊池寛や久米正雄も私小説作家として出発したが、限界を感じて「通俗小説作家」に転身したとある。だから偉いということらしい。
 小林の菊池についての記述には尊崇の念がにじみ出ている。意外である。文芸春秋派の総帥として持ち上げているのだろう。嫌味を感じる。小林はあれで文壇ギルドの遊泳術がうまかったのだろう。菊池寛に関する記述は他の作家に比べて詳細である。それだけおべっかを使っているのだろう。ほかの大作家などは一、二行で済ましているのに比べれば。
 フランスの作家例えばジッドも同じ系列に入れているのは説得力がない。以下次号。


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