Eテレの番組で「100分de名著 ブッダ 最期わたしはのことば」を、やっていた。
生きていること自体が苦しみの原因であるということ。「死ぬのが怖い」では、生きていることは脳の錯覚という話だったけれど、錯覚だけでは生きていけない。「諸行無常」を知り、そのうえで生きていくためには、宗教が大きな支えになっていくのかもしれない。そして、仏教は心の病院であるという。
夢を持って生きていく人には関係ないかもしれないが、苦しみにあった人が拠り所にする。そして、苦しみは誰にも平等にやっってくるのだということを知ったときに必要となるので、病院の場所は知っておくべきだと番組の中で言っていた。
「自灯明法灯明」 拠り所がなくなった自分は、何を拠り所とするか。自分を拠り所にし、法(ブッダの教え)を拠り所にし、自分で努力せよということ。
ブッダを供養するということは、その教えを尊重するということであるという。
では、故人の供養とは、その人が一生かけてやってきたことを、周りの人がどう評価するか。わたしは殿の積み重ねてきたものを評価する責任がある。(残した酒を飲み干すことではない)
また、死ぬことを忘れているが、死に向かっての人生の積み重ねで、「死」は人生の総決算。それで、わたしもその日までをどう生きるかということになる。
今日、先輩が訪ねてくれて、彼女も先日旦那さんを亡くしたところで、そんな話をしていたら、「あまりあれこれ考えると、生きていくのが辛くなるよ。」と言われた。ほんとは、もともとぼおっとしているタイプではあったのだ。ところが、「このたび」を、迎えて、少し考えて修行しなさいと言われたような気がするのではある。